㈱チューリップ企画の販売するアニメビデオ『世界の光・親鸞聖人』について、㈱チューリップ企画と田中一憲氏の論戦の記録を公開しています。
徹底検証 親鸞聖人の教え

【第39回】行の一念と信の一念

「弥陀の本願の『若不生者』の『生』は、この世のことではなく、死んでからの極楽往生のこと」と言う田中氏の見解が、いかに親鸞聖人のみ教えと異なるものであるかを、種々明らかにしてきた。

そもそも往生といえば死んでから、というのが仏教の常識であったが、「この世の往生がある」と明らかにされたのが親鸞聖人である。「不体失往生」「平生業成」「現生不退」こそが弥陀の救いであることを、生涯叫び続けられたのが親鸞聖人であり、当時の常識を覆す驚くべき聖人の教えの根拠は、釈迦の「本願成就文」であった。「成就文」の教え以外に親鸞聖人の教えはないのだから、「本願成就文」に反する田中氏の主張は、まったく親鸞聖人の教えではないのである。
親鸞聖人が、釈迦の「成就文」をもって弥陀の「本願文」を領解されたということが、いかに重大な意味を持つか。一つの例を示そう。

「本願成就文」には、弥陀の救いは「一念」であると説かれているのを、法然上人は「行の一念(念仏)」とされているが、親鸞聖人は「信の一念(信心)」と教えられている。
「本願成就文」の「一念」は「念仏」か「信心」か、両聖人の教えの違いはどこにあったのか、簡単に触れておきたい。

法然上人が『本願成就文』の「一念」を「念仏」とされたのは、『本願文』の「十念」の解説として領解されたからである。
『大無量寿経』の「成就文」には、ただ「一念」とあるので、「本願文」の「乃至十念」と同じように領解して「念仏」とも見ることができる。

それを親鸞聖人は「信心」と教えられたのは、異訳の『無量壽如来会』の十八願成就文をもって、『大無量寿経』の十八願成就文を見られたからである。
『大無量寿経』の「乃至一念」とあるところを異訳の『無量壽如来会』には、「一念の浄信」とあるから、凡夫に無い「如来から賜る清浄心(信心)」であることが明らかになる。

また『大無量寿経』の「成就文」の「一念」の文字は「信心」の下にあるが、『無量壽如来会』の「成就文」には「一念の浄信」と説き、「一念」の文字が「信心(浄信)」の上にあることにも親鸞聖人は着目なされた。そして『本願成就文』の「一念」を信心であることを明らかになされている。

かくて「若不生者 不取正覚」(必ず生まれさせる)と誓われた「弥陀の本願」の真意を、「成就文」から親鸞聖人は「一念で不体失往生できる」と説かれたのである。
親鸞聖人の大著『教行信証』六巻は、まさにこのこと一つを明らかにされたものであり、『教行信証』が「本願成就文」の解説書とも言われる所以だ。

「三経の安心あり。その中に大経をもって真実とせらる。大経の中には第十八の願をもって本とす。十八の願にとりてはまた、願成就をもって至極とす。『信心歓喜 乃至一念』をもって、他力の安心と思召めさるる故なり」
(改邪鈔)
覚如上人の仰せである。
仏教の至極(最も大事な御文)である「本願成就文」が分からずしては、親鸞聖人のみ教えは全く分からなくなることが、この一事からも知られよう。
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