㈱チューリップ企画の販売するアニメビデオ『世界の光・親鸞聖人』について、㈱チューリップ企画と田中一憲氏の論戦の記録を公開しています。

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2007 8/18(土) 18:40 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

株式会社チューリップ企画様

先日、知人が購入した貴社の仏教ビデオ「世界の光・親鸞聖人」第2巻を拝見させて頂きました。グラフィック、音楽等、大変よく出来ていると思いましたが、内容について疑問があり、失礼ながら質問させて頂きます。

体失不体失往生のじょう論において、善恵房に以下のような台詞があります。

『皆さん。釈尊が、この世にお生まれになったのは、阿弥陀如来の本願1つを説かれるためでした。どんな人でも、念仏さえ称えれば、死ねば必ず極楽浄土に連れていくという、ありがたいお約束です。』

しかし、聖教に基づけば、善恵房は、このような説法はしていなかったのではないでしょうか?

口伝抄によれば、『小坂の善恵房証空は、体失してこそ往生はとぐれと云々。』と記述されていますから、「死ななければ往生はできない」と説いていたことになります。

どこにも、「念仏さえ称えれば」とは書いていないように思われます。どのような根拠に基づいて「念仏さえ称えれば」と説法していたと判断されたのか、お示し頂けないでしょうか?

また、同じシーンの中に、以下のやりとりがあります。

『お経のどこに、この世で救われるという根拠がありましょうか?』『もちろんございます。阿弥陀如来の本願に、若不生者不取正覚とあります。必ず生まれさせると誓っておられるではありませんか!』

不勉強のためか、この若不生者の『生』を、この世で生まれると解釈している学説を聞いたことがございません。どのような根拠に基づいて、このような解釈をされたのか、お示し頂きたく思います。

こと仏法のことでありますので、内容によっては、ご返信を公開させて頂くことも考えておりますので、その旨、ご了承ください。

田中

※貴社発刊の「とどろき」に掲載されていたアドレスに送信させて頂きましたが、もし部署が違いましたら、お手数ですが、転送をお願い致します。

2007 10/1(月) 09:01 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

いろいろと立て込んでおりまして、お返事遅くなり申し訳ございません。

先日は田中様より、弊社アニメ第2部の「体失不体失往生の諍論」の場面について、2点ご指摘をいただきました。

1つは、善慧房証空が、
「皆さん。釈尊が、この世にお生まれになったのは、阿弥陀如来の本願1つを説かれるためでした。どんな人でも、念仏さえ称えれば、死ねば必ず極楽浄土に連れていくという、ありがたいお約束です。」

と説法しているように描いているが、お聖教にはどこにも、「念仏さえ称えれば」とは書かれてない。なのになぜ、「念仏さえ称えれば」と説法したように描いたのか、その根拠は何か、ということでした。

田中様が提示されたとおり、『口伝鈔』には、
「小坂の善恵房証空は、体失してこそ往生はとぐれと云々」
と書かれてあります。

この諍論の内容を、仏教を知られない一般の皆さんに、どう表現すれば、誤解なく分かって頂けるか、と苦心の末に、あのような描き方になったのですが、「それではいけない」と、お叱りいただき、非力を恥じ入るばかりです。

ところで、田中様なら、一般の人たちに、どのような言葉で、善慧房証空のなされていた説法を、表現されたでしょうか。
アドバイスをいただければ、有り難く思います。

2つには、
…………………………………………………………………………
善慧房証空「お経のどこに、この世で救われるという根拠がありましょうか?」親鸞聖人「もちろんございます。阿弥陀如来の本願に、若不生者不取正覚とあります。必ず生まれさせると誓っておられるではありませんか!」
…………………………………………………………………………

このやりとりで、親鸞聖人が、「若不生者不取正覚」の「生」は「この世で生まれさせる」ことだ、と言われていることについて、「親鸞聖人が、そんな解釈をされている根拠はない」とのご指摘でした。

では、親鸞聖人は、「不体失往生」を主張されなかった方なのでしょうか。

田中様のおっしゃるとおり、こと仏法の問題ですから、もし間違いがあれば、お詫び訂正しなければなりません。
また間違いでなくても、親鸞聖人の教えを鮮明にする、よりよい表現があれば、修正するに憚りませんので、ご教示いただきたく、宜しくお願い致します。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田

2007 10/20(土) 14:48 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

チューリップ企画 サービス課 山田様

ご多忙中にも関わらず、ご返信いただき、ありがとうございました。お礼遅くなり、失礼お許しください。

>1つは、善慧房証空が、
>「皆さん。釈尊が、この世にお生まれになったのは、阿弥陀如来の本願1つを説かれるためでした。どんな人でも、念仏さえ称えれば、死ねば必ず極楽浄土に連れていくという、ありがたいお約束です。」

>と説法しているように描いているが、お聖教にはどこにも、「念仏さえ称えれば」とは書かれてない。なのになぜ、「念仏さえ称えれば」と説法したように描いたのか、その根拠は何か、ということでした。

> 田中様が提示されたとおり、『口伝鈔』には、
>「小坂の善恵房証空は、体失してこそ往生はとぐれと云々」
>と書かれてあります。
> この諍論の内容を、仏教を知られない一般の皆さんに、どう表現すれば、誤なく分かって頂けるか、と苦心の末に、あのような描き方になったのですが、「それではいけない」と、お叱りいただき、非力を恥じ入るばかりです。

> ところで、田中様なら、一般の人たちに、どのような言葉で、善慧房証空のなされていた説法を、表現されたでしょうか。
> アドバイスをいただければ、有り難く思います。

現代人に仏教の心を伝えんとさなれる熱意に、頭の下がる思いです。
そのためには、従来なかった大胆な表現方法もあって然るべきと思います。しかしながら、飽くまで意味が変わらない範囲に留めねばならぬと、私は考えます。

「小坂の善恵房証空は、体失してこそ往生はとぐれと云々」

これは、「死ななければ(極楽)往生は出来ない」という意味であることは明らかですが、ここに「念仏さえ称えれば」と付け加えてよいかが問題だと思います。

口伝抄の続きには、『善恵房の体失して往生するよしのぶるは、諸行往生の機なればなり。』とありますように、善恵房の説は諸行往生であったと考えられます。

諸行往生については、執持抄に『臨終をまち、来迎をたのむことは諸行往生をちかいまします第十九の願のこころなり。』と記述されているように、弥陀の十九願の往生ですから「念仏さえ称えれば」という意味にはなりません。

また、法然上人のお弟子であった聖覚法印は、唯信抄に『諸行往生というは、あるいは父母に孝養し、あるいは師長に奉事し、あるいは五戒・八戒をたもち、あるいは布施・忍辱を行じ、乃至三密・一乗の行をめぐらして、浄土に往生せんとねがうなり。』と記述されています。つまり、法然上人は諸行往生について、このように説法されていたと推定されます。

つまり、『どんな人でも、良い行いに励んでいれば、死ねば必ず極楽浄土に連れていくという、ありがたいお約束です。』と表現すべき内容だと思います。

念仏も善行の一つだと言えないことはありませんが、これを、『念仏さえ称えれば』と表現しては、意味が変わってしまいます。

現今の浄土真宗の寺院において、称名正因の説を唱えている僧侶が少なくないことに対する警鐘の意味で描かれたものだと拝察しておりますが、少なくとも善恵房の責任ではありませんし、事実とも異なってしまいますので、このような表現は不適当ではないかと考えます。

>2つには、
>…………………………………………………………………………
>善慧房証空「お経のどこに、この世で救われるという根拠がありましょうか?」親鸞聖人「もちろんございます。阿弥陀如来の本願に、若不生者不取正覚とあります。必ず生まれさせると誓っておられるではありませんか!」
>…………………………………………………………………………

> このやりとりで、親鸞聖人が、「若不生者不取正覚」の「生」は「この世で生まれさせる」ことだ、と言われていることについて、「親鸞聖人が、そんな解釈をされている根拠はない」とのご指摘でした。

> では、親鸞聖人は、「不体失往生」を主張されなかった方なのでしょうか。

親鸞聖人が不体失往生を主張されたことは口伝抄に明らかです。しかしながら、不体失往生とは、「至心信楽をえた」ということであって、「極楽に往生した」という意味ではありません。

尊号真像銘文には『「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。』

『「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。』と記述されています。

いずれも、「至心信楽をえた」者が極楽に生まれなければ仏に成らないという意味ですから、「若不生者」は、極楽に生まれなければ、という意味になります。

また、唯信鈔文意には『「来迎」というは、「来」は浄土へきたらしむという。これすなわち若不生者のちかいをあらわす御のりなり。穢土をすてて、真実報土へきたらしむとなり。』と記述されています。

これも、同様に、親鸞聖人は、若不生者を真実報土に生まれることと解釈されています。

ビデオにおける件の部分は、現生での救いを強調するための表現だと拝察しておりますが、本願についての解釈が親鸞聖人と異なってはならないと考えます。

> 田中様のおっしゃるとおり、こと仏法の問題ですから、もし間違いがあれば、お詫び訂正しなければなりません。
> また間違いでなくても、親鸞聖人の教えを鮮明にする、よりよい表現があれば、修正するに憚りませんので、ご教示いただきたく、宜しくお願い致します。

このような貴社の姿勢は、大変素晴らしいと思います。不勉強な私のようなものが、意見させて頂くことは失礼とは存じますが、ご検討のほど頂けましたら、有難く思います。

田中

2007 11/21(水) 14:12 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

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田中様

まことに微に入り細を穿っての、丁寧なアドバイスを頂き、感謝の意にたえません。大変な勉学博識に感服させられました。また、お褒めの言葉まで頂き、恐縮するばかりです。
ご教導をいただきながら、お返事が遅くなり申し訳ございませんでした。

さて、内容につきましては、お尋ねしたい点がございまして、愚鈍ゆえ重ねて手を煩わせてしまうことをご寛恕くださいませ。

問題が問題ですから、一つずつ確かめたく思います。

まず、「不体失往生」のことで、お尋ねします。

田中様からの、初めのご指摘は、
「アニメの中で、親鸞聖人が『この世で救われる』根拠として、『若不生者不取正覚』のお言葉を提示されているように描いているのは不適切である」
ということでした。その理由は、
「親鸞聖人には、『若不生者不取正覚』の『生まれる』を『この世で救われる』ことだと解釈されている御文はないからだ」
とのご教示でした。

そこで、
「では、親鸞聖人は、『不体失往生』を主張されなかったのでしょうか」
とお尋ねしたところ、この度の返信で、
「親鸞聖人が不体失往生を主張されたことは口伝抄に明らかです」
とお答え頂き、よく分かりました。

続いて、
「不体失往生とは、『至心信楽をえた』ということ」
とも教えて頂きまして、「不体失往生」の正しい意味を知るには、「至心信楽」について知らねばならない、と分かりました。

そこで、お尋ねしたく思います。

○「至心信楽をえた」とは、どういうことでしょうか。

私たち素人にも分かるように、詳しく教えて頂けないでしょうか。再三お手数をおかけしますが、どうぞ宜しくお願い致します。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田

2007 11/21(水) 23:18 田中氏より㈱チューリップ企画へ

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(株)チューリップ企画 サービス課 山田様

ご多忙中、ご返信いただき、ありがとうございました。

>「不体失往生とは、『至心信楽をえた』ということ」
>とも教えて頂きまして、「不体失往生」の正しい意味を知るには、「至心信楽」について知らねばならない、と分かりました。
> そこで、お尋ねしたく思います。

>○「至心信楽をえた」とは、どういうことでしょうか。

> 私たち素人にも分かるように、詳しく教えて頂けないでしょうか。再三お手数をおかけしますが、どうぞ宜しくお願い致します。

『「至心信楽」というは、至心は、真実ともうすなり。真実ともうすは、如来の御ちかいの真実なるを至心ともうすなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし。濁悪邪見のゆえなり。信楽というは、如来の本願、真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば、信楽ともうすなり。この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。凡夫自力のこころにはあらず。』

上記の尊号真像銘文の文章の通り、至心とは、如来の本願が真実であるということ。信楽とは、如来の本願が真実であると疑いなく信じること。この心は凡夫自力の心ではなく、他力より賜るものなので、親鸞聖人は至心信楽を「えた」と表現されています。

このことを口伝抄には「至心信楽の帰命の一心、他力よりさだまる」と表現され、その時に往生するので、不体失往生するのだと記述されています。

『念仏往生には臨終の善悪を沙汰せず。至心信楽の帰命の一心、他力よりさだまるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識におうて、聞持する平生のきざみに治定するあいだ、この穢体亡失せずといえども、業事成弁すれば、体失せずして往生すと、いわるるか。本願の文あきらかなり。かれをみるべし。』

つまり、不体失往生とは「至心信楽をえた」ことであり、不体失往生した人が真実報土に生まれるのが「若不生者」の「生」ということになります。

あと、私を僧侶か何かと勘違いしておられるのかも知れませんが、ただの仏教ずきの一般人ですので、まったくの素人です。貴社の発行している解説書も拝見させていただきましたが、とても良く研究されており、素人の作ったものとは思えません。

すみませんが、このビデオは素人の集まりで作ったものなのでしょうか?私には、そのように思えませんが。

田中

2007 11/23(金) 12:12 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

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田中様

ご多忙の中、早速のお返事を頂き、まことに有難うございました。
大変恐縮ではありますが、ご返事いただきました件につきまして、ご教導をいただきたくお願い申し上げます。

至心信楽を「えた」ということと、「若不生者」の「生」ということとは、関係があるのでしょうか。
あれば、どんな関係があるのでしょうか。

お忙しいと思いますが、ご教示頂ければ有難く思います。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田

2007 11/24(土) 11:00 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画 サービス課 山田様

> 至心信楽を「えた」ということと、「若不生者」の「生」ということとは、関係があるのでしょうか。
> あれば、どんな関係があるのでしょうか。

> お忙しいと思いますが、ご教示頂ければ有難く思います。

まず先便のメールについては、御理解頂けましたでしょうか?
1.不体失往生とは、至心信楽を「えた」ことである。
2.「若不生者」の「生」とは、死んで極楽に「生まれる」ということである。
上記2点については、異論が無いということで宜しいでしょうか?
異論が無ければ、次の御質問についても、愚見を述べさせて頂きます。

田中

2007 11/26(月) 10:59 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

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田中様

再三お手を煩わせまして誠に申し訳ございません。

>1.不体失往生とは、至心信楽を「えた」ことである。

これにつきましては、異論ではないでしょうが、「至心信楽をえた」とは、どんなことか、良く分かりませんので、ご教授頂ければ幸甚と思います。

>2.「若不生者」の「生」とは、死んで極楽に「生まれ
>  る」ということである。

誠に申し訳ないことですが、お尋ねしましたことは、ご提示された、「若不生者」の「生」と、「至心信楽をえた」、と仰ることの関係なのですが、関係があるのでしょうか。あれば、どんな関係か、ご教示お願いしたのであります。よろしくお汲み取り下さい。

ところで、このようにご教導頂きながら、田中様は、当方の住所も氏名も立場もご存じなのに、当方は、田中様のお名前もご住所など、まだ何も存じ上げておりません。このような場合の常識からも、この際、是非お知らせ下さい。よろしくお願い致します。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田

2007 11/27(火) 21:30 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画 サービス課 山田様

>>1.不体失往生とは、至心信楽を「えた」ことである。

> これにつきましては、異論ではないでしょうが、「至心信楽をえた」とは、どんなことか、良く分かりませんので、ご教授頂ければ幸甚と思います。

つまり、異論は無いということですね。先々便のメールで根拠を示した上で、以下のようにご説明させて頂きましたが、どの点がご不明だったでしょうか?

> 上記の尊号真像銘文の文章の通り、至心とは、如来の本願が真実であるということ。信楽とは、如来の本願が真実であると疑いなく信じること。この心は凡夫自力の心ではなく、他力より賜るものなので、親鸞聖人は至心信楽を「えた」と表現されています。

>>2.「若不生者」の「生」とは、死んで極楽に「生まれ
>>  る」ということである。

> 誠に申し訳ないことですが、お尋ねしましたことは、ご提示された、「若不生者」の「生」と、「至心信楽をえた」、と仰ることの関係なのですが、関係があるのでしょうか。あれば、どんな関係か、ご教示お願いしたのであります。よろしくお汲み取り下さい。

この御質問にお答えするに当たって、異論がなければ「若不生者」の「生」とは、死んで極楽に「生まれる」ということだという前提で説明させて頂くことになります。しかし、この点に異論をお持ちでしたら、その前提が狂ってしまいますので、まず異論の有無を確認させて頂くのが当然と思います。
「若不生者」の「生」とは、死んで極楽に「生まれる」ということに異論は無いということで宜しいでしょうか?

> ところで、このようにご教導頂きながら、田中様は、当方の住所も氏名も立場もご存じなのに、当方は、田中様のお名前もご住所など、まだ何も存じ上げておりません。このような場合の常識からも、この際、是非お知らせ下さい。よろしくお願い致します。

失礼な書き方になるかも知れませんが、私も、貴方の氏名も住所も存じ上げませんし、別段、知りたいとも思っておりません。貴社の所在地は、ビデオのパッケージに記載されていますから存じておりますが、これは企業として当然のことであって、個人の住所と同列には扱えないと思います。

不必要に個人情報を明かすべきではない、というのが現今の常識と存じておりますが、何か不都合がありますでしょうか?

田中一憲

2007 11/28(水) 16:29 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

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田中様

ご多忙の中、返信を頂き、有難うございました。

> >>1.不体失往生とは、至心信楽を「えた」ことである。
>
> > これにつきましては、異論ではないでしょうが、「至心信楽をえた」とは、どんなことか、良く分かりませんので、ご教授頂ければ幸甚と思います。
>
>  つまり、異論は無いということですね。先々便のメールで根拠を示した上で、以下のようにご説明させて頂きましたが、どの点がご不明だったでしょうか?

>> 上記の尊号真像銘文の文章の通り、至心とは、如来の本願が真実であるということ。信楽とは、如来の本願が真実であると疑いなく信じること。この心は凡夫自力の心ではなく、他力より賜るものなので、親鸞聖人は至心信楽を「えた」と表現されています。

前に、お示し頂いた根拠で良く分からなかったといいましたのは、愚鈍なものですから、「如来の本願が真実であると疑いなく信じること」、親鸞聖人が「信楽をえた」といわれていることについて、もう少し、どうなるのか、具体的に教えて頂きたかったと思ったからであります。

> >>2.「若不生者」の「生」とは、死んで極楽に「生まれる」ということである。
>
> > 誠に申し訳ないことですが、お尋ねしましたことは、ご提示された、「若不生者」の「生」と、「至心信楽をえた」、と仰ることの関係なのですが、関係があるのでしょうか。あれば、どんな関係か、ご教示お願いしたのであります。よろしくお汲み取り下さい。

>  この御質問にお答えするに当たって、異論がなければ「若不生者」の「生」とは、死んで極楽に「生まれる」ということだという前提で説明させて頂くことになります。しかし、この点に異論をお持ちでしたら、その前提が狂ってしまいますので、まず異論の有無を確認させて頂くのが当然と思います。

> 「若不生者」の「生」とは、死んで極楽に「生まれる」ということに異論は無いということで宜しいでしょうか?

「若不生者」の「生」が、死んで極楽に「生まれる」ということだ、ということを前提とされても結構ですので、「若不生者」の「生」と、「至心信楽をえた」とおっしゃることとの関係はあるのでしょうか。あれば、どんな関係か、ご教示お願いしたいのであります。

> > ところで、このようにご教導頂きながら、田中様は、当方の住所も氏名も立場もご存じなのに、当方は、田中様のお名前もご住所など、まだ何も存じ上げておりません。このような場合の常識からも、この際、是非お知らせ下さい。よろしくお願い致します。
>
>
>  失礼な書き方になるかも知れませんが、私も、貴方の氏名も住所も存じ上げませんし、別段、知りたいとも思っておりません。貴社の所在地は、ビデオのパッケージに記載されていますから存じておりますが、これは企業として当然のことであって、個人の住所と同列には扱えないと思います。
>  不必要に個人情報を明かすべきではない、というのが現今の常識と存じておりますが、何か不都合がありますでしょうか?

何か御都合があるようで、田中様の正しい住所やお名前を明かしたくないようですので、いまは不自由ありませんので敢えてお聞きすることは遠慮させて頂きます。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田

2007 11/28(水) 23:39 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画 サービス課 山田様

> 前に、お示し頂いた根拠で良く分からなかったといいましたのは、愚鈍なものですから、「如来の本願が真実であると疑いなく信じること」、親鸞聖人が「信楽をえた」といわれていることについて、もう少し、どうなるのか、具体的に教えて頂きたかったと思ったからであります。

貴社のビデオ解説書に『阿弥陀仏の本願に救われた人は、この世から、絶対の幸福に生かされて往く。何ものもさわりとならぬ幸福に救われる体験を「往生」というのだ。』と記述されている通りなのではないでしょうか?

なお、その続きに、『この世で絶対の幸福に救われた人は、一息切れたら、必ず、浄土へ往って仏に生まれられること。』と記述されています。つまり、不体失往生した人が、死ねば浄土に生まれるということです。

尊号真像銘文には『「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。』とありますので、貴社の解説書の文章から見ても、「若不生者」は不体失往生のことではありません。

>「若不生者」の「生」が、死んで極楽に「生まれる」ということだ、ということを前提とされても結構ですので、「若不生者」の「生」と、「至心信楽をえた」とおっしゃることとの関係はあるのでしょうか。あれば、どんな関係か、ご教示お願いしたいのであります。

こんな失礼な物の尋ね方は無いと思いますが、如何なものでしょう。「前提とされても結構です」と仰るのは、貴方としては認められないという意味にも取れますよ。なぜ「異論はありません」と書けないのですか?

異論をお持ちであれば、まず「生」が死んで極楽に「生まれる」ということだと納得して頂かねば、説明は無駄になります。私に無駄な説明をせよと仰るのですか?

理由も無く、いきなり住所を尋ねておきながら、答えないと、私が都合が悪いから答えないような書き方をされますが、これも如何なものでしょう。

貴方は会う人会う人、皆に自宅住所を教えて回っておられるのですか?普通は、必要性のある場合だけ、教えるものですよ。

田中一憲

2007 11/30(金) 10:31 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

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田中様

幾たびもお手を煩わせまして申し訳ございません。

> > 前に、お示し頂いた根拠で良く分からなかったといいましたのは、愚鈍なものですから、「如来の本願が真実であると疑いなく信じること」、親鸞聖人が「信楽をえた」といわれていることについて、もう少し、どうなるのか、具体的に教えて頂きたかったと思ったからであります。
>
>  貴社のビデオ解説書に『阿弥陀仏の本願に救われた人は、この世から、絶対の幸福に生かされて往く。何ものもさわりとならぬ幸福に救われる体験を「往生」というのだ。』と記述されている通りなのではないでしょうか?

この度の田中様のお答えは、「信楽をえた」とは、「何ものもさわりとならぬ、絶対の幸福に生かされて往くこと」ということでしょうか。文末の「~と記述されている通りなのではないでしょうか?」といわれている意味が、今一ハッキリしなかったものですから、くどいようですが、お尋ねさせていただきます。

>  >「若不生者」の「生」が、死んで極楽に「生まれる」ということだ、ということを前提とされても結構ですので、「若不生者」の「生」と、「至心信楽をえた」とおっしゃることとの関係はあるのでしょうか。あれば、どんな関係か、ご教示お願いしたいのであります。
>
>  こんな失礼な物の尋ね方は無いと思いますが、如何なものでしょう。「前提とされても結構です」と仰るのは、貴方としては認められないという意味にも取れますよ。なぜ「異論はありません」と書けないのですか?
>
>  異論をお持ちであれば、まず「生」が死んで極楽に「生まれる」ということだと納得して頂かねば、説明は無駄になります。私に無駄な説明をせよと仰るのですか?

「前提にされても結構です」とか「異論ではありませんが」と言いましたのは、田中様が「若不生者」の「生」を、死んで極楽へ生まれることのみのように思っていられるようであったからです。これで、ご立腹なされたのならばお詫び致します。

これについては無駄な説明に決してならないと思います。
それで改めて、「信楽をえた」ということと「若不生者」の「生」とは、どんな関係か、お尋ね致します。よろしくお願い申し上げます。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田

2007 11/30(金) 22:47 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画 サービス課 山田様

> この度の田中様のお答えは、「信楽をえた」とは、「何ものもさわりとならぬ、絶対の幸福に生かされて往くこと」ということでしょうか。文末の「~と記述されている通りなのではないでしょうか?」といわれている意味が、今一ハッキリしなかったものですから、くどいようですが、お尋ねさせていただきます。

これは貴社の解説書の不体失往生の説明の文章です。不体失往生イコール「信楽をえた」ことですから、「信楽をえた」とは、どういうことかを説明した文章になると思います。

> 「前提にされても結構です」とか「異論ではありませんが」と言いましたのは、田中様が「若不生者」の「生」を、死んで極楽へ生まれることのみのように思っていられるようであったからです。

すみませんが、何を仰いたいのか分かりません。もし、私の意見が間違っていると仰いたいのであれば、『私たち素人にも分かるように、詳しく教えて頂けないでしょうか。』というような、迂遠な書き方はされずに、堂々と自説を主張すべきだと思います。

> これについては無駄な説明に決してならないと思います。
> それで改めて、「信楽をえた」ということと「若不生者」の「生」とは、どんな関係か、お尋ね致します。よろしくお願い申し上げます。

「若不生者」の「生」は、死んで極楽に「生まれる」ことだということに異論があるのか、無いのか、再三お尋ねしているにも関わらず、無視し続けられるのは何故ですか?

もし、教えを請うつもりがあるのであれば、こちらの問いかけに答えて頂けませんか?

田中一憲

2007 12/1(土) 18:15 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

お返事を頂き、有難うございました。

「信楽をえた」とは、解説書にある通りだ、とお答え頂きましたこと、有り難く思います。

当方が何を聞いているのか、サッパリ分かりません、と仰いますので、いま一度申し上げます。

田中様が、「若不生者」の「生」は、死んで極楽に「生まれる」ことだと、死後、極楽へ生まれることだけに断定されていますので、「死んで、極楽へ生まれることのみのことでしょうか」、とお尋ねしたのです。

まだ、ご理解頂けなければ、何度でも説明させて頂きます。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田

2007 12/2(日) 10:18 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画 サービス課 山田様

> 当方が何を聞いているのか、サッパリ分かりません、と仰いますので、いま一度申し上げます。
> 田中様が、「若不生者」の「生」は、死んで極楽に「生まれる」ことだと、死後、極楽へ生まれることだけに断定されていますので、「死んで、極楽へ生まれることのみのことでしょうか」、とお尋ねしたのです。
> まだ、ご理解頂けなければ、何度でも説明させて頂きます。

相変わらず、こちらからの問いかけには無視でしょうか?
立派なビデオを作っておられながら、担当の方がこのような非常識な態度を取り続けられることに、少々失望しております。

上記のご質問については、最初に差し上げたメールに、以下のようにお書きした通りです。

>不勉強のためか、この若不生者の『生』を、この世で生まれると解釈している学説を聞いたことがございません。どのような根拠に基づいて、このような解釈をされたのか、お示し頂きたく思います。

私が、いつ「死後、極楽へ生まれることだけ」と断定しましたでしょうか?

少なくとも私は「生は極楽に生まれる」という学説しか聞いたことがありません。私が不勉強で知らないだけかもしれませんから、それ以外の学説なり根拠が存在するなら、お示し頂きたいと最初からお書きしている通りです。

失礼ですが、私の文章は、きちんと読んでいらっしゃるのでしょうか?
無視されることが多すぎて、お返事を差し上げる気も失せて参ります。

田中一憲

2007 12/3(月) 17:03 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

早速の返事を頂き、有難うございました。

田中様は、今回、私は「若不生者」の「生」を「死後、極楽へ生まれることだけだ」と断定したことはない。それなのに断定したとは何事かと言われて、「死後、極楽へ生まれることだけだ」と断定したことは一度もない、と断言されました。

当方が、そのように断定したのには根拠があります。田中様がいくたびも、『「若不生者」の「生」とは、死んで極楽に「生まれる」ということである』と、今までの通信で繰り返しおっしゃっているからです。

特に、田中様の2通目には、「親鸞聖人は、『若不生者』を真実報土に生まれることと解釈されています」という発言もあり、てっきり田中様は、「若不生者」の「生」は、「死んでからだけのことだ」と断定されている、と理解せざるを得なかった次第です。

決して、田中様の文章を、いい加減に読んだり、田中様の問いかけを無視したりしているからではありません。それどころか田中様の問いに、お答えするために聞き続けているのですから、「返事を出す気も失せる」など、弱気なことをおっしゃらず、力強くご教導下さい。

このたび、「若不生者」の「生」が、「この世で生まれる」と説かれる根拠があれば示せ、と言われていますが、一例を挙げれば、「本願の不思議をもって、生るべからざるものを、生れさせたればこそ、〝超世の悲願〟とも名け、〝横超の直道〟とも聞えはんべれ」と「改邪鈔」にありますが、この「生まるべからざるもの」を「生まれさせた」とは、これは「真実報土に生まれさせた」ということでしょうか。死後のことでしょうか。お聞かせ頂きたく思います。どうぞよろしくお願い致します。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田

2007 12/4(火) 22:20 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画 サービス課 山田様

> 特に、田中様の2通目には、「親鸞聖人は、『若不生者』を真実報土に生まれることと解釈されています」という発言もあり、てっきり田中様は、「若不生者」の「生」は、「死んでからだけのことだ」と断定されている、と理解せざるを得なかった次第です。

私は最初から、「死んで真実報土に生まれる」という以外の解釈があるなら、お示し頂きたいと書いてきました。根拠に基づいた他の解釈があるなら、当然受け入れるつもりでありましたのに、それを無視し続けられたのは貴社の方ではないでしょうか?

> 決して、田中様の文章を、いい加減に読んだり、田中様の問いかけを無視したりしているからではありません。それどころか田中様の問いに、お答えするために聞き続けているのですから、「返事を出す気も失せる」など、弱気なことをおっしゃらず、力強くご教導下さい。

このように書かれた矢先から、私の再三の問いかけは早速無視でしょうか。ますますお返事する気が失せる文章です。

> このたび、「若不生者」の「生」が、「この世で生まれる」と説かれる根拠があれば示せ、と言われていますが、一例を挙げれば、「本願の不思議をもって、生るべからざるものを、生れさせたればこそ、〝超世の悲願〟とも名け、〝横超の直道〟とも聞えはんべれ」と「改邪鈔」にありますが、この「生まるべからざるもの」を「生まれさせた」とは、これは「真実報土に生まれさせた」ということでしょうか。死後のことでしょうか。お聞かせ頂きたく思います。どうぞよろしくお願い致します。

「生るべからざるものを、生れさせたればこそ」の「生まれる」の意味が分かられないというご質問ですが、このご質問を読ませて頂いて、貴社の間違いの原因が判明した気が致します。

貴社の一番の問題は、浄土真宗で「生まれる」といっても二通りの意味があることを理解しておらず、混同しておられることです。ここで「生」と「往生」は、ほぼ同じ意味と受け取って頂いて結構です。

一つ目の「生」は、ビデオの内容で言えば「不体失往生」であり、生きている時に「信楽をえる」ことを「生」と言います。十八願では、「至心信楽欲生我国」に当たります。

二つ目の「生」は、死んで真実報土に生まれることを言います。十八願では、「若不生者」に当たります。
同じ「生」の字を使っていても、意味は全く違います。

お尋ねの「生れさせたればこそ」の「生」は、「信楽をえる」ことであり、「不体失往生」のことですから、「若不生者」の「生」とは異なります。

貴社では、これを「若不生者」の「生」と混同してしまわれたのではないでしょうか?

「生まれる」の二通りの意味を知らねば、「若不生者」の「生」なのか、「不体失往生」の「生」なのか、間違えてしまいます。

おそらく、「生まれる」という言葉にとらわれて、「生」と書いてあるものは、すべて「若不生者」の「生」と同じなのだと勘違いしてしまわれたのでしょう。それで、「若不生者」を、「不体失往生」の根拠として挙げてしまうという間違いを犯してしまわれたのだと拝察致します。

これで、ご理解いただけましたでしょうか?

田中一憲

2007 12/6(木) 07:52 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

お返事を頂き、有難うございました。

浄土真宗で、「生まれる」といっても二通りの意味のあることも、その二つを混同もしていませんのでご安心下さい。

この度、「信楽をえた」ことを「生」と言うが、「若不生者」の「生」とは同じ「生」の字を使っていても意味は全く違う、と言われていますが、大変に間違いやすいのではないでしょうか。

大いに異なるのは、「生きている時」と「死んでから」、「現生不退」と「報土往生」の違いは、誰でも分かりますが、「信楽をえた」「生」を獲なければ、「若不生者」の「生」を得ることは絶対できないのですから、意味は違いますが、「信楽をえた」「生」と、「若不生者」の「生」との関係は密接不離であり、「全く違う」というものではないからであります。

一体、田中様の言われる「若不生者」(死んで真実報土に生まれる)の意味では、「若不生者」の誓い〝真実だった〟と、「若不生者」の誓いに、ツユチリほどの疑心もなくなるのは、何時のことでしょうか。
「生きている今」なのか、それとも「死んで真実報土に生まれて」からのことでしょうか。お聞きしたいと思います。

最後に、「私の再三の問いかけに、無視するな」と言われていますが、どんな問いかけでしょうか。
「若不生者」の「生」は、死んで極楽に「生まれる」ことである。これに異論はあるのか、ないのか、という問いかけのことでしょうか。それなら、「死んで極楽に生まれることのみである」ということには異論がある、とご返事してあります。

当方の文を良くお読みくだされれば、ご理解頂けると思います。どうぞ宜しくお願い致します。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田

2007 12/6(木) 22:37 田中氏より㈱チューリップ企画へ

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(株)チューリップ企画 サービス課 山田様

>それなら、「死んで極楽に生まれることのみである」ということには異論がある、とご返事してあります。

つまり、貴社の見解は「若不生者の『生』には、生きている時に『信楽をえる』という意味もある」ということでしょうか?
この点を確認させて頂いた上で、お尋ねの事には回答させて頂きます。

田中一憲

2007 12/7(金) 16:46 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

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田中様

「本願文」には、「信楽をえる」ということと、「若不生者」ということの、二つが誓われています。
その「本願」に一念で疑いが晴れれば、「信楽をえた」ことと、「若不生者」ということが、二つ同時にハッキリ致します。

田中様はこの度、『「若不生者」の「生」には、「信楽をえる」という意味もあるというのか』と聞かれていますが、田中様は、「若不生者」の誓いに、ツユチリほどの疑いもなくなられるのは、何時ですか。「生きている時」ですか、「死んでから」ですか、再度、お聞き致します。

(株)チューリップ企画  サービス課  山田

2007 12/10(月) 22:58 田中氏より㈱チューリップ企画へ

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(株)チューリップ企画 サービス課 山田様

いくら、貴社からのお尋ねに回答さしあげても、こちらからの問いかけには答えて頂けないので、御返信する気が失せてしまうと以前にもお書きしました。

「若不生者」の「生」は、死んで極楽に「生まれる」ことだということに異論があるのか、無いのか、と再三尋ねても、「死んで極楽に生まれることのみである」ということには異論がある、と正面からの返答を避けておられます。

「死んで極楽に生まれることのみ」ということに異論があるということは、それ以外の解釈があるという御意見ですが、どんな解釈でしょうか?

一度くらいは、私の質問にもまともに答えてください。その上で、御質問の件も御回答させて頂きます。

田中一憲

2007 12/12(水) 07:47 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

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田中様

今までも同じ内容の回答をしてきたのですが、異論は、「若不生者」の「生」は「死んで極楽へ生まれることのみである」と言うことに就いてです。

この度、じゃ、それ以外にどんな解釈があるのか、とのお尋ねを頂きました。

親鸞聖人の教えには、肉体の往生の前に、心の往生があると説かれています。田中様もご承知の「信楽をえる」「不体失往生」です。「若不生者」の誓いなくして「信楽をえる」ことは、絶対できないと教えられたのが親鸞聖人ですから、「不体失往生」に「若不生者」の「生」がなければならないのは当然でしょう。

そこで、先にお聞きした、「若不生者」の誓いに、何時、田中様はツユチリほどの疑いもなくなられるのですか。

「生きている時」ですか、「死んでから」ですか、重ねてお尋ね致します。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田

2007 12/13(木) 00:13 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画 サービス課 山田様

> 親鸞聖人の教えには、肉体の往生の前に、心の往生があると説かれています。田中様もご承知の「信楽をえる」「不体失往生」です。

この点については、ようやく理解して頂けたようですね。「心の臨終」=「信楽をえる」=「不体失往生」ですから、「心の臨終」と「若不生者」は全く違います。

>「若不生者」の誓いなくして「信楽をえる」ことは、絶対できないと教えられたのが親鸞聖人ですから、「不体失往生」に「若不生者」の「生」がなければならないのは当然でしょう。

これは正反対です。「信楽をえる」ことなくして、死んで「若不生者」と極楽に生まれることは、絶対にできないと教えられたのが親鸞聖人ですから、「若不生者」の前に、「不体失往生」が無ければならないのです。貴社は、原因と結果が正反対となっているので、理解を間違ってしまわれたのだと思います。

> そこで、先にお聞きした、「若不生者」の誓いに、何時、田中様はツユチリほどの疑いもなくなられるのですか。
>「生きている時」ですか、「死んでから」ですか、重ねてお尋ね致します。

「若不生者」と、極楽に生まれられると、疑い晴れるのは、「生きている時」です。これは、まだ極楽には生まれていませんが、未来、極楽に生まれられることに疑いが晴れるのです。だから「若不生者」の「生」は、死んで極楽に生まれるということです。

それ以外の解釈があるのであれば、根拠を挙げてお示しください。

田中一憲

2007 12/14(金) 07:50 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

『「信楽をえる」ことなくして、死んで極楽に生まれることは、絶対にできないと教えられたのが親鸞聖人』という、田中様の今回の返答は正解と思います。

当方が先のメールで申しあげたのは、良く読んで頂けば分かると思いますが、『その「信楽をえる」には、「若不生者」の誓いなくしては絶対にできないと教えられたのが親鸞聖人』と申しあげたはずです。

それは、「若不生者のちかいゆえ 信楽まことにときいたり 一念慶喜する人は 往生かならず定まりぬ」と、親鸞聖人がおっしゃっているからです。

ですから、「若不生者」と「信楽をえる」は、不離の関係があると前にも申しあげました。それなのに田中様は、どう勘違いされたのか、この度、「信楽をえる」と「若不生者」は全く違う、とおっしゃっています。どうして、この二つは全く違うのでしょうか。お尋ねします。

次にこの度、「生きている時」に「死んで極楽に生まれられる」という未来のことに疑いが晴れるのです、とおっしゃっていますが、まだ死んでもいないのに今、そんなにハッキリと後生未来のことが分かるのでしょうか。田中様は、何時、そのようにハッキリ疑いが晴れられたのでしょうか。お尋ね致します。

最後に、前から幾度とお聞きしていることですが、田中様ご自身は「若不生者」の誓いに、ツユチリほどの疑いもなくなられたのでしょうか。お尋ね致します。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田

2007 12/15(土) 23:26 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画 サービス課 山田様

>『その「信楽をえる」には、「若不生者」の誓いなくしては絶対にできないと教えられたのが親鸞聖人』と申しあげたはずです。

「若不生者」の誓い、すなわち十八願の中で「信楽をえる」に対応するのは「至心信楽欲生我国乃至十念」です。「若不生者」は「死んで極楽に生まれる」に対応します。

>それは、「若不生者のちかいゆえ 信楽まことにときいたり 一念慶喜する人は 往生かならず定まりぬ」と、親鸞聖人がおっしゃっているからです。

少しでも古文の知識があれば、読み間違えるはずのない文章だと思いますが、なぜ間違われたか不思議です。

これは、阿弥陀仏が「若不生者」と誓われているから、「信楽まことにときいたり、一念慶喜する」人は、「(死んで)往生かならず定まりぬ」ということです。信楽になる時が至り、一念で慶喜する身になった人は、死んで必ず極楽に往生させると誓われたのが、弥陀の十八願だという意味です。

貴方は「ときいたり」で文章を切って理解しておられるようですが、ここで切るならば、終止形の「いたる」(過去形なら「いたりき」)とならねばなりません。親鸞聖人が、こんな文法のミスをされるはずが無いと思います。

また、これは十八願の解説ですから、親鸞聖人の解釈を元に読まねばなりません。

尊号真像銘文には『「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。』

『「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。』と記述されています。

つまり、文法的に見ても、親鸞聖人の解釈から見ても、この文章は「若不生者と誓われているから、信楽をえた人は、死んで往生することが、かならず定まるのだ」という意味になります。

>ですから、「若不生者」と「信楽をえる」は、不離の関係があると前にも申しあげました。それなのに田中様は、どう勘違いされたのか、この度、「信楽をえる」と「若不生者」は全く違う、とおっしゃっています。どうして、この二つは全く違うのでしょうか。お尋ねします。

「関係」という言葉は、違うものをつなげる言葉です。違うものだからこそ「関係がある」と言えるのです。「若不生者」と極楽に生まれられるのは、「信楽をえた」人だけです。だから、不離の関係があるのです。しかし、「極楽に生まれる」ことと「信楽をえた」ことは、全く違います。

> 次にこの度、「生きている時」に「死んで極楽に生まれられる」という未来のことに疑いが晴れるのです、とおっしゃっていますが、まだ死んでもいないのに今、そんなにハッキリと後生未来のことが分かるのでしょうか。

貴社のビデオの解説書に書いてありました。しかし、貴方の疑問を読ませて頂くと、自分達でも疑問に思うことを、解説書に書かれていたことになります。

私は、貴社の解説書は、御指摘した部分以外は、正しく記述されていると思っておりましたので、先便のメールのように書きましたが、実は何の根拠もなく書かれていたのでしょうか?

>田中様は、何時、そのようにハッキリ疑いが晴れられたのでしょうか。お尋ね致します。
> 最後に、前から幾度とお聞きしていることですが、田中様ご自身は「若不生者」の誓いに、ツユチリほどの疑いもなくなられたのでしょうか。お尋ね致します。

一度も尋ねられた覚えはありませんが、私は「信楽をえた」身ではありません。山田様は、いかがですか?私はお答えしましたから、山田様もお答えください。

田中一憲

2007 12/17(月) 08:28 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

「本願に、ツユチリほどの疑いがあっても、往生できない」と教えられていますが、この度、田中様は、私はまだ「信楽をえた身ではありません」と言われ、弥陀の本願に疑いがある身とおっしゃいました。
「本願文」のどこに疑心があるのでしょうか。お尋ね致します。

「信楽をえて」いない、「本願」に疑いのある方ならば、『改邪鈔』の「生まるべからざるもの」も分からないし、「生まれさせた」と言われているものも分からない、と言うことになりますが、そのように理解してもよろしいでしょうか。お尋ねします。

「信楽をえて」いない者が、「若不生者」は「死んで極楽に生まれると言うことだけでしょうか」などと、田中様にお聞きすることは、おそらくないのではないでしょうか。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田

2007 12/17(月) 23:14 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画 サービス課 山田様

>「本願に、ツユチリほどの疑いがあっても、往生できない」と教えられていますが、この度、田中様は、私はまだ「信楽をえた身ではありません」と言われ、弥陀の本願に疑いがある身とおっしゃいました。
>「本願文」のどこに疑心があるのでしょうか。お尋ね致します。

信楽をえていない人は、本願文の一部分に疑いが有り、残りの部分には疑いが無いと解釈しておられるのですね。そうでなければ、「どこに疑心があるのでしょうか?」という質問が出てくるはずがありません。

本願を信ずる心は、阿弥陀仏より賜る心ですから、本願文の一部を疑い、残りを信じるということは無いと思いますが、いかがでしょう。

>「信楽をえて」いない、「本願」に疑いのある方ならば、『改邪鈔』の「生まるべからざるもの」も分からないし、「生まれさせた」と言われているものも分からない、と言うことになりますが、そのように理解してもよろしいでしょうか。お尋ねします。

分からないからこそ、親鸞聖人のお言葉に従わねばならないと思います。親鸞聖人が、「若不生者」の「生」は、極楽浄土に生まれることだと、何回も明記されていますので、私は親鸞聖人のお言葉に従います。

>「信楽をえて」いない者が、「若不生者」は「死んで極楽に生まれると言うことだけでしょうか」などと、田中様にお聞きすることは、おそらくないのではないでしょうか。

「信楽をえて」いる方が、「若不生者」は「死んで極楽に生まれると言うことだけでしょうか」などと、聞いてこられるはずがないと思います。

親鸞聖人は、「若不生者」の「生」を、「死んで極楽に生まれる」という意味以外に解釈されていません。少なくとも、親鸞聖人と違う信心の方だと思います。

ところで、山田様は信楽をえられましたか?
まだ、お答えいただいていませんので、重ねてお尋ねいたします。

田中一憲

2007 12/19(水) 13:36 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

「本願文の一部を疑い、残りは信ずる、ということは絶対にありません」
田中様の仰る通りです。絶対にあり得ないことです。これによって、田中様は本願文の総てに疑心があると言われていることが、明らかに分かりました。

田中様はこの度、『「本願文」も「改邪鈔の言葉」も分からないからこそ、親鸞聖人のお言葉に従わねばならない』と、誠に殊勝極まることを仰っていると読ませて頂きました。

ご自身は本願を疑っていながら、親鸞聖人のお言葉を主張されている、ということもハッキリ致しました。

それでは、本願に疑いのある田中様にお聞きするのは、まだ子供を産んだことのない女性に、陣痛の苦しみや出産の喜びを尋ねるようで、ちょっとお気の毒な気もするのですが、先便でお聞きした『改邪鈔』の「生まるべからざるもの」とは「何を」言われたのでしょうか。「生るべからざるもの」の正体はなんでしょうか。

また、その後の、「生まれさせた」と言われているのは、何を、どのように「生まれさせた」と言うことでしょうか。お尋ね致します。

もし、田中様が、そんな生きている時のことではない、そんなこととは無関係だよ、と仰るのなら、「若不生者」は、そんなことではない、そんなこととは無関係だ、と言われている親鸞聖人でも覚如上人でも結構です、そのお言葉をお聞かせ下さい。

『「信楽をえて」いる方が、「若不生者」は「死んで極楽に生まれると言うことだけでしょうか」などと、聞いてこられるはずがないと思います』と、田中様は仰っていますが、生きている時に、「若不生者」のちかいによって「信楽まことにときいたった」人は、そのように尋ねるのは当然だと思いますよ。

聖人が「若不生者」の「生」を「死んで極楽に生まれる」という以外の意味に仰っているか、否かは、いま問われていることです。田中様の、これについての意見は充分に受け賜って存知していますのでご心配なさらないで下さい。

最後に、当方が「信楽をえた」か、どうか、まだ答えていない、とは、全く驚きです。

それでは、再度、誰にでも分かるように答えておきましょう。

「若不生者」は「死んで極楽に生まれると言うことだけか」と田中様に尋ねているのは、この山田ですよ。
「信楽をえて」いないものが、山田のようなことを聞けるはずもないし、聞く筈がないじゃないか、とお答えしたのです。

これでも答えていないと仰るなら、何度でもお答え致します。良く読まれて文章の理解力を取り戻して下さい。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田

2007 12/20(木) 00:16 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画 サービス課 山田様

>「本願文の一部を疑い、残りは信ずる、ということは絶対にありません」
>田中様の仰る通りです。絶対にあり得ないことです。

この点は、分かって頂けたようですね。
「本願文」のどこに疑心があるのでしょうか、という質問が出てくること自体、教えが分かっていないということなのです。

>『改邪鈔』の「生まるべからざるもの」とは「何を」言われたのでしょうか。「生るべからざるもの」の正体はなんでしょうか。
>また、その後の、「生まれさせた」と言われているのは、何を、どのように「生まれさせた」と言うことでしょうか。お尋ね致します。

この改邪抄の記述は、少し前の部分の「仏、願力の不思議をもって無善造悪の凡夫を摂取不捨したまう時は」の解説です。つまり、「生まるべからざるもの」とは「無善造悪の凡夫」のことであり、「生まれさせた」とは「摂取不捨したまう時」のことを表しています。

「摂取不捨したまう時」とは、歎異抄一章に『「弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて往生をば遂ぐるなり」と信じて、「念仏申さん」と思いたつ心の発るとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめ給ふなり。』と記述されている通りです。

この 「弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて往生をば遂ぐるなり」と信じて、という部分は、本願文の「至心信楽欲生我国」に当たります。根拠は既出ですが、

『信楽というは、如来の本願、真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば、信楽ともうすなり。この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。凡夫自力のこころにはあらず。「欲生我国」というは、他力の至心信楽のこころをもって、安楽浄土にうまれんとおもえるなり。』

さらに、この摂取不捨の利益にあづかった人が、極楽浄土に生まれなければ仏にならないと誓われたのが「若不生者」だと、記述されています。

『この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。「若不生者不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。』

このように、親鸞聖人の記述から、改邪抄の「生まれさせた」は、生きている間であり、「若不生者」の「生」は死後であることが明らかです。

>もし、田中様が、そんな生きている時のことではない、そんなこととは無関係だよ、と仰るのなら、「若不生者」は、そんなことではない、そんなこととは無関係だ、と言われている親鸞聖人でも覚如上人でも結構です、そのお言葉をお聞かせ下さい。

私は、最初から「生まれさせた」は、生きている時であると主張し続けてきました。「良く読まれて文章の理解力を取り戻して下さい。」と私をお叱りになる前に、山田様こそ、良く読まれて文章の理解力を取り戻したほうが、良いのではないでしょうか?

私が、改邪抄の「生まれさせた」は、死後だと主張した文章があれば、指摘してください。

>聖人が「若不生者」の「生」を「死んで極楽に生まれる」という以外の意味に仰っているか、否かは、いま問われていることです。田中様の、これについての意見は充分に受け賜って存知していますのでご心配なさらないで下さい。

しかし、私は、貴社から「若不生者」の「生」を「死んで極楽に生まれる」という以外の意味に仰っている、という根拠を、いただいておりません。親鸞聖人の御言葉でお示しください。

>「信楽をえて」いないものが、山田のようなことを聞けるはずもないし、聞く筈がないじゃないか、とお答えしたのです。
>これでも答えていないと仰るなら、何度でもお答え致します。良く読まれて文章
の理解力を取り戻して下さい。

では、もう一度お願いします。「信楽をえた」「信楽をえていない」の、どちらかでお答えください。それ以外の説明は書かないでください。

田中一憲

2007 12/20(木) 13:39 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

私は「信楽をえて」いますが、今度、田中様にお叱りをうけたように、教えに昏いところがあるかもしれませんが、その点は、宜しくご教授ください。

「生まるべからざるもの」とは、「無善造悪の凡夫」のこと。「生まれさせた」とは、「摂取不捨したまう時」のことである、とご回答頂きました。それでお尋ね致します。

「願力の不思議をもって」「生まれさせた」と言われる、「生まるべからざる、無善造悪の凡夫」とは、いかなる者でしょうか。田中様に「生まるべからざる者」の自覚がおありですか。願力の不思議を疑っていられる田中様にお聞きするのは、無理なことでしょうが、できたらお示し下さい。

次に、「生まれさせた」とは「摂取不捨したまう時」のこと、と言われている「摂取不捨したもう」とは、「無善造悪の凡夫」の、どこが、どう変わるのか、何も変わらないのでしょうか、お尋ね致します。

「信楽をえていない」人が、「信楽というは、如来の本願、真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば……」と、ご文をながながと出されて、『このように、親鸞聖人の記述から、改邪抄の「生まれさせた」は、生きている間であり、「若不生者」の「生」は、死後であることが明らかです』と、田中様は仰いますが、どこにも、「若不生者」は、「死んで極楽に生まれるということだけのことである」と、仰せになっていると思われるご文は見あたりません。文章の理解力が無いためかもしれませんので、具体的に、そのご文を提示して頂きたくお願いします。

改邪抄の「生まれさせた」を、死後のことだと、田中様が仰っていると、当方、一度も言ったことはありません。誤解のないよう、申しあげておきます。

「若不生者」の「生」を「死んで極楽に生まれる」という以外の意味に仰っている、親鸞聖人のお言葉を、まだいただいておりません、と田中様は言われていますが、既に、提示してはいるのですが、本願を疑っていられる方には届かないのかもしれません。しかし、その内、必ず分かって頂けるものと強く期待しています。

(株)チューリップ企画  サービス課  山田

2007 12/21(金) 00:14 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画  サービス課  山田様

> 私は「信楽をえて」いますが、今度、田中様にお叱りをうけたように、教えに昏いところがあるかもしれませんが、その点は、宜しくご教授ください。

山田様は「信楽をえた」おつもりかも知れませんが、親鸞聖人の御信心とは、異なる方のようです。例えば、山田様は、以下のような疑問を尋ねてこられました。

> 次にこの度、「生きている時」に「死んで極楽に生まれられる」という未来のことに疑いが晴れるのです、とおっしゃっていますが、まだ死んでもいないのに今、そんなにハッキリと後生未来のことが分かるのでしょうか。

今さら、これは本心では無かったと言い訳しても、通じないと思います。あなたは、疑いが晴れていない信心なのです。

>「願力の不思議をもって」「生まれさせた」と言われる、「生まるべからざる、無善造悪の凡夫」とは、いかなる者でしょうか。田中様に「生まるべからざる者」の自覚がおありですか。願力の不思議を疑っていられる田中様にお聞きするのは、無理なことでしょうが、できたらお示し下さい。

>次に、「生まれさせた」とは「摂取不捨したまう時」のこと、と言われている「摂取不捨したもう」とは、「無善造悪の凡夫」の、どこが、どう変わるのか、何も変わらないのでしょうか、お尋ね致します。

これは、「信楽をえた」山田様が、「信楽をえていない」私に教授しなければならない内容と思います。どうぞ御解説ください。

>どこにも、「若不生者」は、「死んで極楽に生まれるということだけのことである」と、仰せになっていると思われるご文は見あたりません。文章の理解力が無いためかもしれませんので、具体的に、そのご文を提示して頂きたくお願いします。

「若不生者」は、「死んで極楽に生まれるということだけのことである」という記述が無ければ、「死んで極楽に生まれるという以外の解釈がある」という意味になるのですか?

親鸞聖人が「強盗をしてはならない」と書かれていなければ、強盗をしても構わない、という意味になるのですか?

「リンゴ」と書かれたダンボールを見て、「リンゴだけ」と書いていないから、ミカンも入っていると考えるのでしょうか?

貴社のような誤解をする人は、まず有り得ないことですので、親鸞聖人は、わざわざ「極楽に生まれることだけ」と、念を押す必要が無かったのだと拝察いたします。親鸞聖人としては、想定外の誤解だったのでしょう。

貴社の理屈から言えば、「死んで地獄へ生まれること」とも解釈できるかも知れませんね。どこにも「地獄ではない」と書かれていませんから。

>「若不生者」の「生」を「死んで極楽に生まれる」という以外の意味に仰っている、親鸞聖人のお言葉を、まだいただいておりません、と田中様は言われていますが、既に、提示してはいるのですが、本願を疑っていられる方には届かないのかもしれません。しかし、その内、必ず分かって頂けるものと強く期待しています。

再度、貴社からのメールを読み直しましたが、どこにも見当たりませんでした。申し訳ありませんが、親鸞聖人のお言葉の部分だけを、再度、ご提示ください。

田中一憲

2007 12/21(金) 13:38 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

「信楽をえていない」と言っている方が、「山田、お前はまだ、疑いが晴れていない信心だ」と仰る。自ら「本願を疑っている身」と言いながら、内心は「信楽をえた」つもりでしょうが、それにしても他人に対して、今どうしてそんなことが言えるですか。ぜひ、その心境をお聞きしたいと思います。

本願を説かれた親鸞聖人のお言葉は信ずるが、本願には疑いがある、と言われる田中様のご批判は、何でも結構ですが、その理由がお聞きしたいものです。「死んでもいないのに、どうして今、そんなにハッキリ後生未来のことが分かるのか」と、尋ねたからですか。それなら余りにも幼稚な批判です。

「生まるべからざる、無善造悪の凡夫」とは、如何なる者か。「摂取不捨したもう」たら「無善造悪の凡夫」の、どこが、どう変わるのか、変わらないのか、の問いに窮されると、忽ち、山田を「信楽をえた」者にして、お前解説せよと、ご自身はなんの説明もなさらず、お逃げになる。

次も、親鸞聖人は、わざわざ「極楽に生まれるだけ」と、念を押す必要がなかったからだと、お逃げなさる。なぜ逃げるのか。
前回、田中様が提示された親鸞聖人のお言葉は、「若不生者は、死後のみのことである」という御文になっていません。

それよりも、「若不生者」のちかい、がなければ「信楽」は「生まれず」、「信楽」が「生まれる」のは「若不生者」の誓によるのだと言う、「信楽」と「若不生者」の関係を教えられているお言葉です。よくお読み下さい。

「貴社のメールどこを読んでも、若不生者は死んで極楽に生まれることだけではないという、親鸞聖人のお言葉がない」と言われていますが、それが、「本願を疑っていられる方には届かない」と申しあげた意味なのです。本願に疑心晴れた時にハッキリ知らされることでしょう。

(株)チューリップ企画  サービス課  山田

2007 12/22(土) 12:50 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画  サービス課  山田様

> 次にこの度、「生きている時」に「死んで極楽に生まれられる」という未来のことに疑いが晴れるのです、とおっしゃっていますが、まだ死んでもいないのに今、そんなにハッキリと後生未来のことが分かるのでしょうか。

このように御自身の信心を告白しておられながら、今さら何を必死に言い訳しておられるのですか?

>「生まるべからざる、無善造悪の凡夫」とは、如何なる者か。「摂取不捨したもう」たら「無善造悪の凡夫」の、どこが、どう変わるのか、変わらないのか、の問いに窮されると、忽ち、山田を「信楽をえた」者にして、お前解説せよと、ご自身はなんの説明もなさらず、お逃げになる。

>次も、親鸞聖人は、わざわざ「極楽に生まれるだけ」と、念を押す必要がなかったからだと、お逃げなさる。なぜ逃げるのか。

山田様こそ、「信楽をえた」と自称されるなら、逃げずに御説明になったら如何でしょうか?
山田様は、根拠を挙げずに、逃げてばかりおられるように思います。

>前回、田中様が提示された親鸞聖人のお言葉は、「若不生者は、死後のみのことである」という御文になっていません。
>それよりも、「若不生者」のちかい、がなければ「信楽」は「生まれず」、「信楽」が「生まれる」のは「若不生者」の誓によるのだと言う、「信楽」と「若不生者」の関係を教えられているお言葉です。よくお読み下さい。

『この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。「若不生者不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。』

この記述を、どのように解釈したら、山田様のような理解になるのでしょうか?
「信楽」が「生まれる」のは、「若不生者の誓」の「至心信楽欲生我国」の部分に当たります。「若不生者不取正覚」に当たるのは、「浄土に生まれる」です。

「信楽」に「生まれる」ことと、「浄土に生まれる」ことは、違います。何度も説明している通りです。古文法も余り知られないようですし、ご自身も「教えに昏いところがある」と書かれているので、仕方ないことかも知れませんが。

>「貴社のメールどこを読んでも、若不生者は死んで極楽に生まれることだけではないという、親鸞聖人のお言葉がない」と言われていますが、それが、「本願を疑っていられる方には届かない」と申しあげた意味なのです。本願に疑心晴れた時にハッキリ知らされることでしょう。

その親鸞聖人の御言葉だけを示して頂きたい、と何度もお願いしていますが、結局、一言も出てきませんでした。

「本願を疑っていられる方には届かない」というのは、メールが届かないという意味ですか?
確かに、届いておりません。

親鸞聖人と銘打って、ビデオを販売しておりながら、親鸞聖人が仰っていないことを描き、その部分を指摘されると、根拠も挙げずに、「本願に疑心が晴れないと分からない」などと、無責任な発言をされています。

貴社のビデオを素晴らしいと思っていましたが、貴社の対応には、大変失望いたしました。親鸞聖人の教えを学んでおられながら、相手を小馬鹿にするような態度を取られることも、非常に残念なことです。

願わくは、初心に返られて、一から親鸞聖人の御教えを学ばれますよう。

田中一憲

2007 12/24(月) 12:33 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

大体、今までの往復メールを総括しますと、田中様から教授して頂かねばならぬものは、何もないことが良く分かりましたので、これからは田中様の主張が正しいのか、当社の言い分が正しいのか、親鸞聖人の教えと信心について、真剣かつ率直な法論に入りたいと思います。

対等の立場に立たねば火花が散りませんから、失礼無礼傲慢不遜な、激しい厳しい表現が飛び交うかもしれませんが、これも総て真実開顕のため、敢えてお互い容認しましょう。

さて田中さん、貴方の迷いの根本原因は、雑行、雑修、自力の心を知らず、一念でその雑行雑修自力の心が「死ぬ」と同時に「生まれる」信楽も知らないところにあるのです。

阿弥陀仏の救いには、肉体の往生の前に、心の往生があり、肉体の死の前に、心の死があります。貴方は、その心の「死」を知らないから、心の「生」もまた分からぬ。だから、死んでから極楽に生まれる、肉体の「若不生者」の「生」しか知らないのです。

親鸞聖人に指摘されるまで、「往生」と言えば、「体失往生」しか知らなかった善恵房証空と、そっくりではないかと驚く人もあるでしょう。

反論があれば、どうぞ。

チューリップ企画  山田

2007 12/24(月) 20:27 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画  サービス課  山田様

>さて田中さん、貴方の迷いの根本原因は、雑行、雑修、自力の心を知らず、一念でその雑行雑修自力の心が「死ぬ」と同時に「生まれる」信楽も知らないところにあるのです。
>阿弥陀仏の救いには、肉体の往生の前に、心の往生があり、肉体の死の前に、心の死があります。貴方は、その心の「死」を知らないから、心の「生」もまた分からぬ。

貴社からのメールは、私の書いたものを全く無視しておられるから、返信する気が失せると、再三、申し上げていますが、わざと無視しておられるのですか?

>> 一つ目の「生」は、ビデオの内容で言えば「不体失往生」であり、生きている時に「信楽をえる」ことを「生」と言います。十八願では、「至心信楽欲生我国」に当たります。
>> 二つ目の「生」は、死んで真実報土に生まれることを言います。十八願では、「若不生者」に当たります。
>> 同じ「生」の字を使っていても、意味は全く違います。

上記は、12月4日に、貴社に送ったメールです。肉体の往生の前に、心の往生があり、心の「生」があることは、私が貴社に教えた内容です。

私が貴方に教えた内容を、今さら出してきて、何を主張されたいのですか?

>だから、死んでから極楽に生まれる、肉体の「若不生者」の「生」しか知らないのです。

親鸞聖人は、信楽をえた人が、極楽浄土に生まれることが「若不生者」の「生」だと教えられています。「若不生者」の「生」に、それ以外の意味があると主張されたいなら、その根拠をお示しください。

本願疑心のある人には、メールが届かないというような言い訳は、ご遠慮いただきたく思います。

田中一憲

2007 12/25(火) 11:50 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

『「肉体の往生の前に、心の往生があり、心の「生」があることは、オレがお前に教えてやったことではないか。それを今さら出してきて、何を言いたいのか』との返信。

確かに貴方は、心の「生」があることは知っていられるようだが、その前に、心の「死」があることを知らない、と啓蒙しているのです。

死ぬ「心」とは、雑行雑修自力の心ですが、誰にでも分かる言葉で、その雑行雑修自力の心を2、30聞かせて頂けませんか。心の「死」が分かっていれば、何よりやさしいことですから。これで山田がなにを言いたいのか、お分かりになりましたか。

「本願を信受するは 前念命終なり、即得往生は 後念即生なり」と、親鸞聖人は仰せです。後念即生の「生」は、「至心信楽欲生我国」のことで、「若不生者」の「生」とは関係ないと言われるのならば、その根拠を貴方がこだわる、親鸞聖人のお言葉で示して下さい。

無視していれば、忙しいのに返信などするはずないじゃありませんか。ご安心下さい。

(株)チューリップ企画  サービス課  山田

2007 12/26(水) 00:31 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画  サービス課  山田様

>死ぬ「心」とは、雑行雑修自力の心ですが、誰にでも分かる言葉で、その雑行雑修自力の心を2、30聞かせて頂けませんか。心の「死」が分かっていれば、何よりやさしいことですから。

貴方は、「雑行雑修自力の心」を、「誰にでも分かる言葉」で説明できるような程度のものだと思っておられるのですね。

もし、そう思われるなら、2、30とは言いません。1つで良いですから、「誰にでも分かる言葉」で説明してみて下さい。

>「本願を信受するは 前念命終なり、即得往生は 後念即生なり」と、親鸞聖人は仰せです。後念即生の「生」は、「至心信楽欲生我国」のことで、「若不生者」の「生」とは関係ないと言われるのならば、その根拠を貴方がこだわる、親鸞聖人のお言葉で示して下さい。

貴社が、体失不体失往生のじょう論の根拠として使われている口伝抄には、

『至心信楽の帰命の一心、他力よりさだまるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識におうて、聞持する平生のきざみに治定するあいだ、この穢体亡失せずといえども、業事成弁すれば、体失せずして往生すと、いわるるか。』

と記述されています。

即得往生は「至心信楽」であることが明示されていますので、「即得往生は後念即生なり」の記述の通り、これは至心信楽(欲生我国)に当たります。しかし、これが「若不生者」の「生」と関係ないなどとは、私は一度も書いておりません。

>>「関係」という言葉は、違うものをつなげる言葉です。違うものだからこそ「関係がある」と言えるのです。「若不生者」と極楽に生まれられるのは、「信楽をえた」人だけです。だから、不離の関係があるのです。しかし、「極楽に生まれる」ことと「信楽をえた」ことは、全く違います。

上記は12月15日に、貴社に届いているはずのメールです。「本願を疑っていられる方には届かないのかもしれません。」という貴方の言葉通りなのでしょうか?

>無視していれば、忙しいのに返信などするはずないじゃありませんか。ご安心下さい。

再三再四、「若不生者」の「生」を「極楽浄土に生まれる」以外に解釈された根拠をお尋ねしているのに、無視ではないということは、「根拠が無いので答えられない」ということですね?

根拠のない貴社の自説であることが分かり、安心しました。

田中一憲

2007 12/26(水) 12:02 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

「雑行雑修自力の心」を、「誰にでも分かる言葉」で説明できるような程度のものだと、貴方は思っておられるのですか。それなら1つで良いですから挙げて下さい、との返信。

こんな恥ずかしいことを、よくも堂々と言えたものだと感心するが、だから貴方には、雑行雑修自力の心が、全然分かっていないと言ったのです。「死んだら極楽に生まれさせると誓われているが、本当だろうか」などと、本願を疑っている心、すべてを「自力の心」と言うのです。一つで良い、と言われるが、ついでに言っておきましょう。『「若不生者」の「生」は、「死んで極楽に生まれる」ことだけだと思っている心』も、みな「自力の心」というのですよ。分からなければ最も大事なことですから何度でも答えましょう。

「至心信楽」と「若不生者」「生」と関係ないと、私は一度も書いたことがない、と断言された。では、どんな関係があるのかと聞くと、田中さんは、「信楽」をえた人だけが「若不生者」と極楽に生まれられる、という関係だと仰る。

その「信楽」がえられるのは、どうしてえられるのですか。「若不生者の念力」によるのではありませんか、と山田は言っているのです。「そうでない」、と言われるのならば、どうして「信楽」をえられるのか。その根拠を、親鸞聖人のお言葉で示して下さい。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田

2007 12/26(水) 23:21 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画 サービス課 山田様

>「死んだら極楽に生まれさせると誓われているが、本当だろうか」などと、本願を疑っている心、すべてを「自力の心」と言うのです。

こんな説明で「雑行雑修自力の心」という深遠なお言葉が、誰にでも分かると思っておられるのですね。貴方の理解の程度が、よく分かりました。

>次にこの度、「生きている時」に「死んで極楽に生まれられる」という未来のことに疑いが晴れるのです、とおっしゃっていますが、まだ死んでもいないのに今、そんなにハッキリと後生未来のことが分かるのでしょうか。

つまり、上記のような疑問を起こされている山田様の心を、自力の心と言うのですね。

>『「若不生者」の「生」は、「死んで極楽に生まれる」ことだけだと思っている心』も、みな「自力の心」というのですよ。分からなければ最も大事なことですから何度でも答えましょう。

このようなことを親鸞聖人が、どこに教えられているでしょうか?
根拠を示してください。

>その「信楽」がえられるのは、どうしてえられるのですか。「若不生者の念力」によるのではありませんか、と山田は言っているのです。「そうでない」、と言われるのならば、どうして「信楽」をえられるのか。その根拠を、親鸞聖人のお言葉で示して下さい。

何度も示しましたように、『この「至心信楽」は、すなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。』と記述されています。十八願の「至心信楽」の誓いによって、信楽がえらえるのです。

そして、『「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。』と、十八願の「若不生者」の誓いによって、極楽浄土に生まれられるのです。

>> 再三再四、「若不生者」の「生」を「極楽浄土に生まれる」以外に解釈された根拠をお尋ねしているのに、無視ではないということは、「根拠が無いので答えられない」ということですね?
>>
>> 根拠のない貴社の自説であることが分かり、安心しました。

上記の記述に対しても、何の反論もありませんでした。これが、「極楽浄土に生まれる」以外の解釈が存在しない、何よりの証拠ではありませんか。
親鸞聖人と異なる、貴社独自の解釈と認められたものと判断いたします。

田中一憲

2007 12/27(木) 15:05 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

「雑行雑修自力の心」という深遠なお言葉が、誰にでも分かると思っているのか、との返信。

それでは『御文章』に数多く、「雑行雑修自力の心」をふりすてて、とか、なげすててとかありますが、誰にでも分からぬことを、蓮如上人は仰っているのですか。

「雑行雑修自力の心」のなんたるかも分からず、当然、「雑行雑修自力の心」の廃ったことのない貴方には、〝深遠な言葉〟としか感じられないのは分りますが、分からぬものを、どうして、ふりすてて、弥陀をたのむことができるのですか。

それは「十八願の至心信楽の誓による」と、貴方はおっしゃりたいのでしょうが、仏教の素人といわれるから仕方がないかもしれませんが、先ず「至心信楽の誓(願)」を良く知ってください。

「至心信楽の誓」とは、「雑行雑修自力の心」を切り捨てて、「至心信楽」に生まれさせることができなければ、この弥陀は正覚を取らぬ、という誓です。われわれを「浄土に生まれさせるために」弥陀が正覚をかけてのお誓いなのです。だからこそ「至心信楽の願」と言われるのです。

では、「何を」、「どのように生まれさせる」と、誓われているのか、と言いますと、「雑行雑修自力の心」こそが迷いの親玉だから、その「雑行雑修自力の心」を死なせ(前念命終)「信楽」に生まれさせ(後念即生)ることができなければと、弥陀の命は「信楽」に懸けられているのですよ。その願意を明らかにされたのが、親鸞聖人の不体失往生の教えです。

だから「至心信楽の願」を親鸞聖人は、「若不生者のちかい」とも言われ、「若不生者のちかいゆえ 信楽まことにときいたり 一念慶喜する人は 往生かならず定まりぬ」と教えられているのです。

「雑行雑修自力の心」が廃り、「信楽」と、一念で心が晴れ渡り慶喜しますから、「一念慶喜する人は」と言われ、往生かならず定まる(信楽)に生まれたのは、全く「若不生者のちかい」によるのだよ、と仰っているのです。

「雑行雑修自力の心」を良く知り、「至心信楽の願意」が知らされれば、貴方のもろもろの誤解は直ちに解けるでしょう。反論があれば、年末年始かまいません。

(株)チューリップ企画  サービス課  山田

2007 12/27(木) 22:21 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画 サービス課 山田様

>それでは『御文章』に数多く、「雑行雑修自力の心」をふりすてて、とか、なげすててとかありますが、誰にでも分からぬことを、蓮如上人は仰っているのですか。

誰にでも分からぬことだから、200通以上の御文章を書かれなければならなかったのです。

>「至心信楽の誓」とは、「雑行雑修自力の心」を切り捨てて、「至心信楽」に生まれさせることができなければ、この弥陀は正覚を取らぬ、という誓です。

根拠の無い、独自の解釈ですね。そんなことを、親鸞聖人がどこに書かれていますか?

>われわれを「浄土に生まれさせるために」弥陀が正覚をかけてのお誓いなのです。だからこそ「至心信楽の願」と言われるのです。

「至心信楽」に生まれた人を、「浄土に生まれさせる」が「若不生者」なので、この「生」は死後に限られるのです。

>では、「何を」、「どのように生まれさせる」と、誓われているのか、と言いますと、「雑行雑修自力の心」こそが迷いの親玉だから、その「雑行雑修自力の心」を死なせ(前念命終)「信楽」に生まれさせ(後念即生)ることができなければと、弥陀の命は「信楽」に懸けられているのですよ。その願意を明らかにされたのが、親鸞聖人の不体失往生の教えです。

そのように「信楽」に生まれた人を、さらに「極楽に生まれさせる」と誓われているのが、「若不生者」なのです。つまり、阿弥陀仏の救いは2回あるのです。どうやら、あなたは1回しか無いと思っておられるようですね。

>だから「至心信楽の願」を親鸞聖人は、「若不生者のちかい」とも言われ、「若不生者のちかいゆえ 信楽まことにときいたり 一念慶喜する人は 往生かならず定まりぬ」と教えられているのです。
>「雑行雑修自力の心」が廃り、「信楽」と、一念で心が晴れ渡り慶喜しますから、「一念慶喜する人は」と言われ、往生かならず定まる(信楽)に生まれたのは、全く「若不生者のちかい」によるのだよ、と仰っているのです。

この和讃についての貴社の解釈の誤りについては、すでに書いた通りです。親鸞聖人の記述も、文法も全く無視した解釈で、論ずるまでもありません。

>「雑行雑修自力の心」を良く知り、「至心信楽の願意」が知らされれば、貴方のもろもろの誤解は直ちに解けるでしょう。反論があれば、年末年始かまいません。

結局、最後まで根拠は一つも挙げられませんでしたね。
すでに貴方は、親鸞聖人と異なる、貴社の独自の解釈だと認めておられるのですから、反論する必要もありません。

私は、親鸞聖人の解釈に従いますので、貴社は、ご自由に自説を主張されたら良いと思います。しかし、親鸞聖人のお名前で、ビデオを販売するのはやめていただけませんか。親鸞聖人が、どこにも書かれていないことなのですから。

田中一憲

2007 12/28(金) 15:01 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

「雑行雑修自力の心」は、誰にでも分からないことだから200通以上の御文章を書かれねばならなかったのだ、と貴方は言う。誰にでも意味が分かってこそ書かれた意味があるのではないか。そんな誰にも意味の分からぬことを何百回書かれても、なんの意味があるのですか。

「雑行雑修自力の心」が分からねば、御文章は絶対に読めないのだ。御文章も読めない者が、弥陀の本願や、親鸞聖人、蓮如上人の教えを、あれこれ言うのは土台無理なのだ。丁度、幼稚園児が横綱に相撲のコーチが出来ないのと同じです。

「至心信楽」に生まれさせることができなければ、弥陀は正覚を取らぬ、というのは、根拠のない、独自の解釈だとの批判、よくぞ言ったり。貴方は、親鸞聖人の教えも蓮如上人の教えも、まるで分かっちゃいないのです。真宗学もろくにやっていませんね。それでは、理解だけでも正しくはできませんよ。

そんな方だから仕方がないが、根本は貴方が、「雑行雑修自力の心」が分からないから、その雑行雑修自力の心の廃ったということもない、ゆえに「前念命終」の心の臨終も知らない、改邪抄の「生まるべからざるもの」も分からぬことになるのです。

当然、「信楽」に生まれた味もなければ、「後念即生」の心の誕生も知らないし、「生まれさせられた」という、意味も分からない。ないないづくしで、「信楽まことにときいたり」と言われていても、「一念慶喜」したこともなければ、「往生必ず定まった」大満足も知らぬ。ましてそれが、弥陀が正覚を懸けた「若不生者」の念力であったとは、ユメにも思えないのです。

そんな者からは、善恵房と同じで親鸞聖人の仰る不体失往生は、とんでもない根拠のない、独自の解釈に思えたのだ。善恵房には「今、生まれさせられた」ということがなかったからだ。そこであの体失・不体失往生の大諍論が起きたのですよ。

善恵房は、弥陀の本願の「若不生者」は、「死んで極楽に生まれさせる」ことだけだと誤解していたのです。それに対して親鸞聖人は、「体失往生」の前に「不体失往生」がなければならぬ、事実、親鸞聖人は不体失往生させられた体験から、「若不生者」の願意を開顕されたのが、体失往生・不体失往生の大諍論だったのです。

御文章も読めない貴方が、ビデオ販売の指図は傲慢でしょう。反論歓迎。

(株)チューリップ企画  サービス課  山田

2007 12/29(土) 00:03 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画  サービス課  山田様

>「雑行雑修自力の心」は、誰にでも分からないことだから200通以上の御文章を書かれねばならなかったのだ、と貴方は言う。誰にでも意味が分かってこそ書かれた意味があるのではないか。そんな誰にも意味の分からぬことを何百回書かれても、なんの意味があるのですか。

真宗門徒に名を連ねる人ならば、たいてい御文章を読まれたことがあるでしょう。近所の寺に行って、門徒さんに「雑行雑修自力の心」の意味を尋ねてみて下さい。意味も分からず読まれている人ばかりだと分かるはずです。

>「至心信楽」に生まれさせることができなければ、弥陀は正覚を取らぬ、というのは、根拠のない、独自の解釈だとの批判、よくぞ言ったり。貴方は、親鸞聖人の教えも蓮如上人の教えも、まるで分かっちゃいないのです。真宗学もろくにやっていませんね。それでは、理解だけでも正しくはできませんよ。

貴方は、私が素人だからと馬鹿にして、どうせ間違っていても分かるまいと、根拠の無い自説を並べているように見えます。「真宗学」に基づいた主張だと言われるなら、世間に対して貴社の解釈を公表できますか?

私は、貴社に対する質問のつもりでメールを送っていましたが、貴方は法論だと仰る。法論というからには、大衆の目に晒し、優劣の評価を受ける自信はおありですか?

おそらく、「真宗学の基本も知らぬ会社」と烙印を押されてしまうことでしょう。お逃げになるなら、今のうちですよ。

田中一憲

2007 12/29(土) 12:27 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

「雑行雑修自力の心」の意味を知らずに、御文章を読んでいる門徒ばかりです、との返信。

読んでいる者が「雑行雑修自力の心」を知らないのを当然のように言っているが、貴方はどこか、おかしいのではありませんか。

教えなければならない立場の僧職が、貴方と同じく「雑行雑修自力の心」を知らないから、教えられないのですよ。僧職の重大な職務放棄の結果ですよ。恥ずべきこととは思われませんか。

今までの、一切の経緯の公開大いに結構、やって下さい。「真宗学の基本も知らぬ者」と烙印を押されるのは、どちらか、お楽しみに。

(株)チューリップ企画  サービス課  山田

2008 1/3(木) 11:10 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画  サービス課  山田様

新年明けましておめでとうございます。
今年も、お互い一層の研鑽に励む年とさせて頂きたいものです。

>今までの、一切の経緯の公開大いに結構、やって下さい。「真宗学の基本も知らぬ者」と烙印を押されるのは、どちらか、お楽しみに。

さて、上記の件についてですが、以下のホームページにて公開いたしました。

http://tulip-tanaka.cocolog-nifty.com/blog/

一行の文字数が少ないため、そのままコピーすると文章が崩れますので、改行を修正したところがありますが、文章そのものは一字一句違わず掲載しておりますので、ご確認ください。今後のメールも、受信次第、掲載させていただきます。

この議論を、誰に読んでいただくべきか考えますと、一番は、やはり貴社のビデオ購入者だと思いますので、貴社のホームページにリンクして頂くことを、要望いたします。

田中一憲

2008 1/7(月) 07:59 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

頌春

昨年は、何かとお騒がせしましたが、今年も決死報恩、お互い健康に留意し真実開顕に努めましょう。宜しく、期待しています。

さて、年が変わっても田中さん、弥陀の本願の「若不生者」は「死んで極楽に生まれさせる」ことだけだという、貴方の思い込みは変わりませんか。それでは、おめでたいとは言えません。親鸞聖人の教えではないからです。

貴方の申し出の件、当方すべてOKです。

チューリップ企画  山田

2008 1/8(火) 20:18 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画  サービス課  山田様

話を戻しますが、貴方は、私が「不体失往生」を否定しているかのような書き方ばかりされますね。

私は最初から、この世で「信楽」に「生まれた」者だけが、死んで「極楽浄土」に「生まれる」ことが出来ると主張し続けております。

そのことを、親鸞聖人は

「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。

このように記述されています。他にも、何箇所も「若不生者の生は、極楽浄土に生まれることだ」と書かれています。

逆に、貴方のように「若不生者の生は、信楽に生まれることだ」と書かれているところは一箇所もありません。

親鸞聖人は、「若不生者」の「生」を「極楽浄土に生まれる」という解釈以外されていないのは明らかです。

もし、「極楽浄土に生まれる」という意味だけしかない、ということに異論があるのであれば、親鸞聖人の御言葉を示してください。

私は何回も根拠を示していますが、貴社からは、いまだに一つの根拠も出てきません。

田中一憲

2008 1/10(木) 15:23 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

田中さん、貴方が親鸞聖人の不体失往生の教えを認め、『この世で「信楽」に「生まれた」者だけが、死んで「極楽浄土」に「生まれる」ことができる』との主張は、十分承知していますのでご安心下さい。

さて問題は、「極楽浄土に生まれる」肝心の「信楽」に「生まれる」ことと、「若不生者不取正覚」の弥陀の誓いの関係が、いま追求されているのです。
貴方ならご存知と思いますが、『大無量寿経』には、「易往而無人」と説かれ、「弥陀の浄土には、往き易いが、人なし」と、釈尊は言われていますが、なぜか。

その意を親鸞聖人は、「人なしというは、真実信心の人は、ありがたきゆえに、実報土に生るる人稀なりとなり」(尊号真像銘文)と仰っています。
誰が読んでも分かるように、「死んで極楽に生まれられるか、否か」は、偏に「真実信心(信楽)に生まれたか、否か」で決まるということです。

ところが、その「真実信心(信楽)に生まるる人は稀である」と、極難信の「信楽」と教えられています。そんな極難の真実信心(信楽)が、私たちにどうして「生まれる」のでしょう。貴方も仰っている通り、全く、弥陀の本願力(若不生者の念力)によるしかないと教えられています。

されば、「信楽」が私たちに「生まれる」のは、偏に、「若し、生まれずは、正覚をとらぬ」と、弥陀が生命をかけて誓われている、「若不生者の念力」によることは明白です。ゆえに、親鸞聖人は「若不生者のちかいゆえ 信楽まことに時至り 一念慶喜する人は 往生かならず定まりぬ」と、言われているのです。これが親鸞聖人が善恵房と大諍論までして明らかにして下された、不体失往生ではありませんか。

『「若不生者の念力」なくして、「信楽」が私たちに「生まれる」ことがあるのか、ないのか』が、いま問われていることなのです。
貴方の言い分では、弥陀は「死んで極楽に生まれる」ことだけに正覚をかけていられることになりますが、善恵房証空の体失往生の主張そのものではありませんか。

弥陀が、「信楽に若し生まれさせることができなければ、正覚を取らぬ」と、誓われたからこそ私たちに「信楽まことに時至る」のであり、そして、その人だけが「極楽浄土に生まれられる」のではありませんか。
貴方は、「死んで極楽に生まれる」まで、「若不生者の念力」は無関係で、働かれないと思われますか。

貴方の求める親鸞聖人の根拠は、そのうち明らかになってゆくでしょう。

(株)チューリップ企画  サービス課  山田

2008 1/14(月) 22:05 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画  サービス課  山田様

>ところが、その「真実信心(信楽)に生まるる人は稀である」と、極難信の「信楽」と教えられています。そんな極難の真実信心(信楽)が、私たちにどうして「生まれる」のでしょう。貴方も仰っている通り、全く、弥陀の本願力(若不生者の念力)によるしかないと教えられています。

>されば、「信楽」が私たちに「生まれる」のは、偏に、「若し、生まれずは、正覚をとらぬ」と、弥陀が生命をかけて誓われている、「若不生者の念力」によることは明白です。

>『「若不生者の念力」なくして、「信楽」が私たちに「生まれる」ことがあるのか、ないのか』が、いま問われていることなのです。

私達が信楽に生まれるのは、「弥陀の本願力」によるものだということに異論はありませんが、「若不生者の念力」という言葉は、親鸞聖人の書かれた言葉でしょうか?貴方の作った言葉でしょうか?

>貴方の言い分では、弥陀は「死んで極楽に生まれる」ことだけに正覚をかけていられることになりますが、善恵房証空の体失往生の主張そのものではありませんか。

「死んで極楽に生まれる」ことができるのは、「信楽をえた人だけ」でしょうか?
それとも、「信楽をえていない人も含めて全員」でしょうか?

>貴方の求める親鸞聖人の根拠は、そのうち明らかになってゆくでしょう。

これだけメールのやり取りをしても、明らかにならないのは、根拠がないと考えざるを得ません。

田中一憲

2008 1/15(火) 16:10 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

お元気でなによりでした。
「これだけメールのやり取りしているのに」と仰いますが、まだ序の口ですよ。
堅実に論じ合って、親鸞聖人の正しい教えの開顕に努めましょう。

先日も「信楽」に「生まれる」人は稀であることを、親鸞聖人のお言葉で挙げましたが、蓮如上人も『大無量寿経』の「易往而無人」の意味を同じように明らかにしていられます。

『大経』には「易往而無人」とこれを説かれたり。この文の意は、「信心をとる人稀なれば、浄土へは往き易くして人なし」と言えるは、この経文の意なり。(『御文章』)

「自ら流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰し難く、大信海(信心・信楽)に入り難し」(『教行信証』)
とも言われて、「極楽に生まれる」ことは易しいが、「信楽」に「生まれる」ことが難しいのだと仰っています。なぜでしょうか、田中さん。

それは、「助・正間雑し、定・散心雑わるが故に」と親鸞聖人は言われ、蓮如上人は「雑行雑修自力の心」が廃らないからだと言われています。

貴方は、「雑行雑修自力の心」は深遠だから言えないと仰っていますが、誰にも分からないようなことを蓮如上人が、あんなに沢山『御文章』に書かれるでしょうか。

「これだけ善をやっているから悪い処へは行かんじゃろう」
「みんなから善い人と言われているから、地獄へは堕ちんだろう」
「こんなに善いことしているもの、死ねば極楽参り間違いなかろう」
「朝晩キチンと勤行しているから、悪い処へは行かんだろう」
「阿弥陀さまのお給仕は欠かさないから、助けて下さるだろう」
「これだけ毎日、念仏称えているから、死んでも大丈夫じゃろう」
「信心を獲られたようにも思えるが、どうもハッキリしない」
「念仏を称えても、ちょっとも味がない、これでもいいのだろうか」
「ツユチリほどの疑心があっても助からぬといわれるが、気持ちが悪い」
「生きている時に、ハッキリ助かったということなどあるはずがなかろう」
「雑行雑修自力の心とは、どんな心か深遠で分からない」
「雑行雑修自力の心が、分かったから大丈夫」
「後生暗い心が死んで、明るい心に生まれたのは、若不生者の念力であったとハッキリしない心」

挙げよと言われればいくらでもあるが、本願疑惑心の一切を「雑行雑修自力の心」と言われるのです。この「雑行雑修自力の心」が廃って「信楽」に「生まれる」ことが難中の難だと教導されているのでしょう。

親鸞聖人のお言葉で言えば、一念で、弥陀の救いに値うた時が「信受本願」(本願を信受した時)であり、同時に「前念命終」(雑行雑修自力の心の死ぬ時)であり、同時に「即得往生」(信楽に生まれ、不体失往生する時)するのです。

「若不生者」の本願力によらねば、「雑行雑修自力の心」は廃らないし、絶対に「信楽」に「生まれる」ことはできないというご教示です。
貴方はこの度、「弥陀の本願力」と「若不生者の念力」とは、異なるように言われていますが、どう違うのですか、教えて下さい。

「若不生者の念力」によってのみ「信楽」が「生まれ」、「信楽」が「生まれた人のみ」が「死んで極楽に生まれる」ことが出来る。これが親鸞聖人の教えではありませんか。

ご健勝を念じます。

(株)チューリップ企画  サービス課  山田

2008 1/17(木) 23:29 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画  サービス課  山田様

>「これだけメールのやり取りしているのに」と仰いますが、まだ序の口ですよ。

すでに数十通もやりとりしているのに、まだ序の口ですか。何百通、続くのでしょうか?

しかし、これで貴社の主張には、まったく根拠がないことが分かりました。私がお尋ねしているのは「若不生者」の「生」を「不体失往生(信楽)」と解釈できる根拠だけです。

つまり、一通のメールで終わる議論なのです。その一通のメールさえ送れないのが、根拠のない何よりの証拠です。

>貴方は、「雑行雑修自力の心」は深遠だから言えないと仰っていますが、誰にも分からないようなことを蓮如上人が、あんなに沢山『御文章』に書かれるでしょうか。

つい最近、「雑行雑修自力の心」は僧侶でも知らないから教えられない、と書かれたのは貴方ですよ。主張をコロコロ変えないでください。

>貴方はこの度、「弥陀の本願力」と「若不生者の念力」とは、異なるように言われていますが、どう違うのですか、教えて下さい。

「若不生者の念力」という言葉の根拠を尋ねましたが、お返事ありませんでしたので、貴方の作った言葉だと判断いたします。

自分で作った言葉について、相手に質問するのは筋違いというものではありませんか?

>「若不生者の念力」によってのみ「信楽」が「生まれ」、「信楽」が「生まれた人のみ」が「死んで極楽に生まれる」ことが出来る。これが親鸞聖人の教えではありませんか。

そんなことを、親鸞聖人が、どこに書かれていますか?
いつまでも貴社の独自の解釈を繰り返されるのは、子供じみていますよ。

「信楽をえた人を、必ず極楽浄土に生まれさせる」というのが「若不生者不取正覚」の心だと、親鸞聖人が何箇所も書かれています。

田中一憲

2008 1/18(金) 13:46 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

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田中様

『「若不生者」の「生」を「不体失往生(信楽)」と解釈できる根拠だけを聞いているのに、未だに答えない』と、返信された。

私たちは、その根拠が明確になるまでは、何百回になろうとも真実の開顕を続けねばなりません。それが親鸞聖人の教えを明らかにすることですから。

これが一通のメールなどで終わるような内容ならば、親鸞聖人の「体失不体失往生」の大諍論は無かったでしょう。田中さん、貴方は一体、私たちの曠劫流転の親玉は、何だと思っておられますか。

「生死輪転の家に還来することは、決するに疑情を以て所止と為す」(正信偈)

「真の知識にあうことは
かたきがなかになお難し
流転輪廻のきわなきは
疑情の障りにしくぞなき」(高僧和讃)

私たちの迷いの親玉は、欲や怒りの煩悩ではなく、「疑情」一つと親鸞聖人は言われています。「疑情」とは、「雑行雑修自力の心」です。極楽浄土へ生まれさせる為に弥陀が、我々の、この迷いの親玉である「疑情(雑行雑修自力の心)」を、「信楽(往生一定の決定心)」に「生まれさせる」と「正覚」をかけて誓われているのが、「若不生者不取正覚」ではありませんか。

だから、「真実の信心(信楽)をえたる人のみ、本願の実報土によく入ると知るべし」(尊号真像銘文)と、親鸞聖人は仰っているのです。貴方の言い分では、必然的に「極楽に生まれられる」ことに、弥陀は正覚をかけて、「獲ること難し」と言われている「信楽」に、弥陀は正覚をかけておられないことになります。それが「弥陀の願心」でしょうか。

何を勘違いしていられるのか、「雑行雑修自力の心」について、当方、コロコロ変わったことは一度もありません。

断じて、逃げては真実開顕はできません。
「弥陀の本願力」と「若不生者の念力」と、どう違うのか、再度、お尋ねします。

『「信楽をえた人を、必ず極楽浄土に生まれさせる」というのが「若不生者不取正覚」の心だと、親鸞聖人が何箇所も書かれています』と最後に貴方は、またまた強調なさる。誰も否定していない、そんな言葉の床擦れは避けましょう。

(株)チューリップ企画  サービス課  山田

2008 1/19(土) 21:13 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画  サービス課  山田様

>『「若不生者」の「生」を「不体失往生(信楽)」と解釈できる根拠だけを聞いているのに、未だに答えない』と、返信された。

>私たちは、その根拠が明確になるまでは、何百回になろうとも真実の開顕を続けねばなりません。それが親鸞聖人の教えを明らかにすることですから。

すみませんが、私には何百回もメールを送り続けるような時間はありません。私が尋ねているのは、親鸞聖人が書かれているか否かです。一通どころか、一行で済むことを尋ねているのです。

>極楽浄土へ生まれさせる為に弥陀が、我々の、この迷いの親玉である「疑情(雑行雑修自力の心)」を、「信楽(往生一定の決定心)」に「生まれさせる」と「正覚」をかけて誓われているのが、「若不生者不取正覚」ではありませんか。

そんなことは、親鸞聖人はどこにも書かれていません。

>だから、「真実の信心(信楽)をえたる人のみ、本願の実報土によく入ると知るべし」(尊号真像銘文)と、親鸞聖人は仰っているのです。貴方の言い分では、必然的に「極楽に生まれられる」ことに、弥陀は正覚をかけて、「獲ること難し」と言われている「信楽」に、弥陀は正覚をかけておられないことになります。それが「弥陀の願心」でしょうか。

弥陀が正覚をかけておられるから、信楽をえた人は、「必然的」に極楽に生まれられるのです。あなたは、必然的に極楽に生まれられるから、正覚をかける必要は無いと言いたいのですか?

そうだとしたら、貴方の理解力を疑う文章です。

弥陀が「信楽に生まれられる」と正覚をかけておられるなら、「必然的に信楽に生まれられる」ことになりますが、必然的に信楽になれるのに、なぜ「獲ること難し」を言われているのですか?

>断じて、逃げては真実開顕はできません。
>「弥陀の本願力」と「若不生者の念力」と、どう違うのか、再度、お尋ねします。

貴方の作った言葉について、私に尋ねてどうするのですか?
逃げずに根拠を挙げていただきたく思います。

田中一憲

2008 1/20(日) 18:46 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

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田中様

これだけ答えていても、貴方にも分からないことを思うと、ネットで見ている人たちを考えると、もっと分かり易く正しい親鸞聖人の教えを徹底しなければならない。「仏法には明日という日はない」と蓮如上人は仰っています。時間がないなどと言っておれることではありません。お互い奮起しましょう。

『弥陀は、我々の迷いの親玉の「疑情」を、「信楽」に「生まれさせる」ために正覚をかけて、「若不生者」と誓われているのである』と、当方が言ったのです。

この度それに対して、「そんなことは、親鸞聖人は、どこにも書かれていない」と貴方は言い切った。だから「貴方にも分からない親鸞聖人の教え」と、先ほど言ったのです。

必然的に「極楽へ生まれられる」のは、「信楽をえた」人であって、「獲ること難し」と言われているのは、
「常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じ難きにはあらず、真実の信楽、実に獲ること難し」と親鸞聖人仰っているように、難しいのは、極楽へ往くことではなく「信楽をえる」ことなのですよ。

誤解を怖れず、分かり易い例えで言いましょうか。ある「高校」に合格すれば、必ず、好きな「大学」に入られるとハッキリしていれば、受験生は「高校」と「大学」、どちらに全力を尽くすでしょうか。
「高校」の合格に全力尽くすままが、好きな「大学」へゆく尽力とも言えますが、その「高校」にさえ合格出来れば、必然的に好きな「大学」へ行けることがハッキリしているのですから、高校受験に全力を尽くすでしょう。

『「信楽」に生まれた人を、さらに「極楽に生まれさせる」と誓われているのが、「若不生者」なのです』。
これは、平成19年12月27日の、貴方からのメールですが、「信楽」にさえ「生まれさせれば」、必然的に「極楽へ生まれさせられる」のに、なぜまた、さらに「極楽へ生まれさせる」のに、「若不生者」と正覚をかけて誓われなければならないのですか。それでは大前提が崩れます。

例えで言えば、「高校」に合格しても、好きな「大学」に入れるか、否か、がハッキリせず、安心できないということになれば、ある高校に合格すれば、必ず好きな大学に入られるとハッキリする、という大前提が崩れましょう。

貴方は、「弥陀の本願力」と「若不生者の念力」とは違う、と言われる。ネットで見ている人たちのためにも、どこがどう違うのか、ハッキリさせて下さい。みんな納得されるでしょう。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田

2008 1/20(日) 22:05 田中氏より㈱チューリップ企画へ

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(株)チューリップ企画 サービス課 山田様

>誤解を怖れず、分かり易い例えで言いましょうか。ある「高校」に合格すれば、必ず、好きな「大学」に入られるとハッキリしていれば、受験生は「高校」と「大学」、どちらに全力を尽くすでしょうか。
>「高校」の合格に全力尽くすままが、好きな「大学」へゆく尽力とも言えますが、その「高校」にさえ合格出来れば、必然的に好きな「大学」へ行けることがハッキリしているのですから、高校受験に全力を尽くすでしょう。

阿弥陀仏が、「必ず高校に合格させる」と誓われているなら、必然的に高校に合格できるのですから、高校受験に全力を尽くす必要はありませんね。

何のために勉強するのでしょうか?

>『「信楽」に生まれた人を、さらに「極楽に生まれさせる」と誓われているのが、「若不生者」なのです』。
>これは、平成19年12月27日の、貴方からのメールですが、「信楽」にさえ「生まれさせれば」、必然的に「極楽へ生まれさせられる」のに、なぜまた、さらに「極楽へ生まれさせる」のに、「若不生者」と正覚をかけて誓われなければならないのですか。それでは大前提が崩れます。

阿弥陀仏が「信楽に生まれた人を、極楽に生まれさせる」と誓われているから、「信楽にさえ生まれれば、必然的に極楽に生まれられる」のです。

「極楽に生まれさせる」のに「若不生者」と正覚をかけて誓われていなければ、「信楽に生まれた人」が「極楽に行けない」可能性が出てくるので、大前提が崩れます。

>例えで言えば、「高校」に合格しても、好きな「大学」に入れるか、否か、がハッキリせず、安心できないということになれば、ある高校に合格すれば、必ず好きな大学に入られるとハッキリする、という大前提が崩れましょう。

だから、阿弥陀仏が「高校に合格した者」を、「必ず好きな大学に入れる」と誓われているのです。

そうでなければ、好きな「大学」に入れるか、否か、がハッキリせず、安心できないことになります。

もし、阿弥陀仏が「高校に合格した者」を、「必ず好きな大学に入れる」と誓われていなければ、「ある高校に合格すれば、必ず好きな大学に入られるとハッキリする」という大前提が崩れます。

>貴方は、「弥陀の本願力」と「若不生者の念力」とは違う、と言われる。ネットで見ている人たちのためにも、どこがどう違うのか、ハッキリさせて下さい。みんな納得されるでしょう。

私が、「弥陀の本願力」と「若不生者の念力」とは違うと、いつ書きましたか?

貴方の作った言葉の意味など、私が知るはずもありません。

ですから、同じとも、違うとも書いた覚えはありませんが、何月何日のメールのことか、お示しください。

田中一憲

2008 1/21(月) 20:10 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

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田中様

当方の出した例えを、貴方のように誤解する人を想定して、敢えて「誤解を怖れず」と言っておいたのに、なんという勘違いをなさるものか。驚くばかりです。

愚痴はやめて、くどいようでも繰り返しましょう。
貴方は、『若不生者は、「高校に合格した者」を必ず「好きな大学に入れる」と誓われたものだ』と、この度も返信された。今、問われているのは何か、貴方はご承知ですか。

「高校の合格」に例えたのは、「必ず好きな大学に入れる」とハッキリしたことであり、「信楽」という高校に合格したのに、「極楽」という大学に入れないことは絶対にないということです。

だが、その「信楽」という高校に合格するのは、大変難しいと親鸞聖人は「信楽受持すること甚だ以て難し」(正信偈)と教えられています。それは、釈尊も、親鸞聖人も、蓮如上人も同じです。そのように「信楽をえる」ことが難しいから、「浄土」に生まれる人は少ない、と、善知識方は仰っているのです。そんな難しい「高校」に、どうして我々は合格できるのか。本願力(若不生者の念力)によってか、どうか、が今論じられているのです。

それに対して貴方は、「阿弥陀仏が、必ず高校に合格させると誓われているのなら、高校受験に全力を尽くすことは要りませんね」と皮肉り、「じゃ、なんのために勉強するのでしょうか」と、高校受験の努力の必要性をほのめかされている。それでは、我々の努力が「信楽をえる」のに間にあうかのように取りかねませんよ。

「本願力」(若不生者の念力)によらねば、絶対に「信楽をうる」ことはできないことは、貴方も認めていることですが、「本願力」によるのだから「信楽をうる」のは易しいことだと貴方が言うなら、釈尊の「浄土へは往き易いけれども、人なし」も、親鸞聖人の「仏願力には帰し難く、大信海(信楽)に入り難し」も、「真実の信楽、実に獲ること難し」も、蓮如上人の「真実信心(信楽)の人は、ありがたきゆえに、実報土に生まるる人稀なり」の聖語もみな無視する、浄土真宗の教えになりません。

「若不生者」の念力で、「信楽に生まれさせられた人」が「極楽に行けない」という可能性があるとすれば、阿弥陀仏が「信楽に生まれさせた人を、必ず極楽に生まれさせる」と誓われている、大前提が崩れると言っているのです。

今回、貴方は、「弥陀の本願力」と「若不生者の念力」とは違う、と言ったことは一度もない。あったら挙げてみよとまで断言された。それでは、平成20年1月14日のメールで「若不生者の念力」は、親鸞聖人の書かれた言葉でしょうか?、貴方の作った言葉でしょうか?、などと、なぜ問題にされたのか。「弥陀の本願力」も「若不生者の念力」も、同じことだと知ってのことなら無意味な問いではありませんか。ただ文字の配列の違いか、意味の違いか、あるいは逃げ道探しか、なんだったのか、大きな疑問が残るでしょう。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田

2008 1/22(火) 22:14 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画 サービス課 山田様

>「高校の合格」に例えたのは、「必ず好きな大学に入れる」とハッキリしたことであり、「信楽」という高校に合格したのに、「極楽」という大学に入れないことは絶対にないということです。

貴方の主張は、「阿弥陀仏が、必ず極楽に生まれさせると誓われなくても、信楽をえた人は、必ず極楽に生まれられる」ということですか?

>それに対して貴方は、「阿弥陀仏が、必ず高校に合格させると誓われているのなら、高校受験に全力を尽くすことは要りませんね」と皮肉り、「じゃ、なんのために勉強するのでしょうか」と、高校受験の努力の必要性をほのめかされている。それでは、我々の努力が「信楽をえる」のに間にあうかのように取りかねませんよ。

『その「高校」にさえ合格出来れば、必然的に好きな「大学」へ行けることがハッキリしているのですから、高校受験に全力を尽くすでしょう。』

上記は、貴方の言葉ですが、何に全力を尽くすのですか?

>「本願力」によるのだから「信楽をうる」のは易しいことだと貴方が言うなら、釈尊の「浄土へは往き易いけれども、人なし」も、親鸞聖人の「仏願力には帰し難く、大信海(信楽)に入り難し」も、「真実の信楽、実に獲ること難し」も、蓮如上人の「真実信心(信楽)の人は、ありがたきゆえに、実報土に生まるる人稀なり」の聖語もみな無視する、浄土真宗の教えになりません。

「阿弥陀仏が、必ず信楽に生まれさせると誓っておられるから、必然的に信楽になれる」と主張されているのは、貴方ではありませんか?

必然的に信楽になれるのなら、なぜ「難し」と言われるのでしょう。

上記の根拠は、貴方の主張が間違っている証拠です。

>「若不生者」の念力で、「信楽に生まれさせられた人」が「極楽に行けない」いう可能性があるとすれば、阿弥陀仏が「信楽に生まれさせた人を、必ず極楽に生まれさせる」と誓われている、大前提が崩れると言っているのです。

つまり、「若不生者」は「信楽に生まれさせた人を、必ず極楽に生まれさせる」という意味だと、認めたということですか?

>今回、貴方は、「弥陀の本願力」と「若不生者の念力」とは違う、と言ったことは一度もない。あったら挙げてみよとまで断言された。それでは、平成20年1月14日のメールで「若不生者の念力」は、親鸞聖人の書かれた言葉でしょうか?、貴方の作った言葉でしょうか?、などと、なぜ問題にされたのか。「弥陀の本願力」も「若不生者の念力」も、同じことだと知ってのことなら無意味な問いではありませんか。ただ文字の配列の違いか、意味の違いか、あるいは逃げ道探しか、なんだったのか、大きな疑問が残るでしょう。

私は、一貫して、「若不生者の念力」などという単語は知らない、と言い続けています。親鸞聖人のお言葉か、貴方の作った言葉か、と尋ねたのが、何よりの証拠です。

知らない単語について、「同じ」だとか、「違う」などと判断できるはずが有りません。

私が、「弥陀の本願力」と「若不生者の念力」とは違う、と言ったという根拠を、早く示してください。

しかも、私が、「貴方の作った言葉と判断する」と宣言しても、貴方は反論されなかった。つまり、貴方も造語であることを認めたわけです。

親鸞聖人のお言葉で根拠が出せないからといって、今度は造語まで持ち出して持論を主張してこられました。

もはや、法論という範疇ではありません。

私が尋ねているのは、若不生者を「信楽に生まれる」と解釈された、親鸞聖人の御言葉です。

すでに、何十通もメールを頂いていますが、一つの根拠も挙げられず、ついに造語まで出してこられました。

これ以上、貴方に尋ねること自体が、不毛と思われます。

田中一憲

2008 1/23(水) 14:29 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

貴方の今日までの迷走の根源は、「真実の信楽」に対する無知からきているのですから、「真実の信楽」を明らかにすることが不可欠と思われます。

親鸞聖人は、「真実の信楽」に就いて次のように教えられています。
「夫れ、真実の信楽を按ずるに信楽に一念あり、一念とは是れ、信楽開発の時尅の極促を顕わし、広大難思の慶心を彰すなり」(教行信証)
これは、「真実の信楽」には一念があり、「一念」とは信楽開発の時尅の極促」
であり、「広大難思の慶心」である、と言うことです。

この「信楽開発の時尅の極促の一念」こそが、自力と他力の分岐点であり、地獄と極楽の分かれ目であり、弥陀の本願(若不生者の誓)の極意であり、釈迦出世の本懐であり、宗の淵源であり、凡夫往生の枢要であり、浄土真宗の肝腑であり、肝要であり、至極と言われているのです。

この「真実の信楽」を徹底的に明らかにされたのが、親鸞聖人の『教行信証』「信巻」であり、これによって超世不共の、親鸞聖人の「唯信独達の法門」が発揚されたのではありませんか。

ところが、今まで貴方の言われてきた「信楽」には、その「一念」もなければ、「信楽開発」の解説もなければ、「時尅の極促」の説明もない。如何に貴方が、「真実の信楽」について不明であるかの明証でしょう。

もし貴方に、この「真実の信楽」が理解されていたら、『「信楽」に生まれさせた人を、さらに「極楽に生まれさせる」と誓われているのが、「若不生者」だ』(平成19年12月27日の貴方のメール)などの愚かな発言はありえなかったでしょう。

「一念」も、「信楽開発」ということも、「時尅の極促」も、「広大難思の慶心」も、全く分かっていない証拠です。だから「真実の信楽」といっても、実は、なんのことやら、さっぱり分からないのですから、誤解するのも無理はないのです。

それでも貴方が、親鸞聖人が説かれている「真実の信楽」を、このように私は、ちゃんと理解しているよと仰るなら、いまこそ「真実の信楽」を明らかにすべきです。さすれば、どちらが正しい親鸞聖人の教えか、ハッキリするのですから。
こちらも全力尽くしましょう。

逃げ口上に付き合っている時間はありません。逃げ口上か、否かの判断は大衆がするでしょう。

(株)チューリップ企画  サービス課  山田

2008 1/25(金) 23:08 田中氏より㈱チューリップ企画へ

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(株)チューリップ企画  サービス課  山田様

>逃げ口上に付き合っている時間はありません。逃げ口上か、否かの判断は大衆がするでしょう。

若不生者の「生」は「信楽」だという根拠を、いくら尋ねても、話題を逸らして答えない貴方の文章を、「逃げ口上」というのではないでしょうか?

もし「そうでは無い」と言われるのなら、以下の質問に「逃げずに」答えていただきたく思います、

(1)親鸞聖人が、「若不生者」の「生」は「信楽をえる」ことだと言われた文章を示してください。

(2)貴方は『「信楽」に生まれさせた人を、さらに「極楽に生まれさせる」と誓われているのが、「若不生者」だ』を「愚かな発言」と書かれましたが、以下の記述も、「愚かな発言」でしょうか?

『このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。』

『「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。』

『「来迎」というは、「来」は浄土へきたらしむという。これすなわち若不生者のちかいをあらわす御のりなり。穢土をすてて、真実報土へきたらしむとなり。』

(3)貴方の作った例え話の「高校受験に全力を尽くす」とは、何を例えたのでしょうか?

(4)『貴方は、「弥陀の本願力」と「若不生者の念力」とは違う、と言われる。』との内容がありましたが、私が、何月何日に、そのように書きましたでしょうか?

(5)『次にこの度、「生きている時」に「死んで極楽に生まれられる」という未来のことに疑いが晴れるのです、とおっしゃっていますが、まだ死んでもいないのに今、そんなにハッキリと後生未来のことが分かるのでしょうか。』と疑問になる他力信心があるのでしょうか?

上記は全て、貴方の文章についての質問ですから、貴方が責任もって、逃げずに答えていただきたく思います。

田中一憲

2008 1/26(土) 16:03 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

「夫れ、真実の信楽を按ずるに信楽に一念あり、一念とは信楽開発の時尅の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり」と、親鸞聖人は明らかに教えていられます。

先便で、この「真実の信楽」を信知すれば、貴方の迷いは総て解消されると言いました。

これは「真実の信楽」には「一念」があり、「一念」とは「信楽開発の時尅の極促」であり、「広大難思の慶心」である、ということです。信楽開発は、時尅の極促、一念なのです。

前述した、親鸞聖人のお言葉で言えば、「信受本願」した一念を、「前念命終」とも、「後念即生」とも、「即得往生」とも、「住不退転」とも言われているのであって、実は、みな「信楽開発」のことです。

また、今までも話題になった、『若不生者のちかいゆえ』の『ご和讃』も、「信楽開発」の一念を、「信楽まことにときいたり」とも、「一念慶喜する」とも、「往生かならず定まりぬ」とも言われているのであって、みな、一念同時のことなのです。

事実は同時でも、言葉や文章では同時に言ったり、書いたりは不可能です。それは釈尊でも、親鸞聖人でも、蓮如上人でも、同じことである。必ず、前後ができることは避けられません。

この一念の不思議を知らないから、「本願を信受」した、不可称不可説不可思議を説く「若不生者のちかい」の『和讃』を、古文の常識で読もうとする迷いから、あってはならぬ重大な誤釈を犯すこととなるのです。「信楽開発の一念」を古文の文法で理解できるなら、「不可称不可説不可思議の信楽」と言われた親鸞聖人のお言葉はウソになります。

貴方の問(1)に対する回答
今までも幾度となく答えたこと。それを示すために法論は今からだと、先日、答えたばかりではありませんか。やがて分かります、慌てずに。

貴方の(2)に対する回答
挙げられている3つのお言葉には、「さらに」などという愚かな言葉はありません。当然だからでしょう。
『「信楽」に生まれさせた人を、さらに「極楽に生まれさせる」と誓われているのが、「若不生者」だ』という貴方の発言を、なぜ愚かと言ったのか。それでは「信楽に生まれた者は、必ず極楽に生まれさせる」誓いが、無駄になるから。

貴方の(3)に対する回答
どんな巧みな例えでも、一分をあらわすものだという常識を早く持って頂きたい。

貴方の(4)に対する回答
「弥陀の本願力」を「若不生者の念力」と言っては意味が違う、と言いたいのでしょう。でなければ、貴方の、1月14日のメールの意味がナンセンスだと言っているのです。

貴方の(5)に対する回答
有りません。メンタルテストしただけのこと、無用なお気遣いはお構いなく。

今後も、お互い真実の信楽の開顕に努めましょう。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田

2008 1/27(日) 19:28 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画 サービス課 山田様

>また、今までも話題になった、『若不生者のちかいゆえ』の『ご和讃』も、「信楽開発」の一念を、「信楽まことにときいたり」とも、「一念慶喜する」とも、「往生かならず定まりぬ」とも言われているのであって、みな、一念同時のことなのです。

山田様の仰るとおり、「信楽まことにときいたり」も、「一念慶喜する」も、「往生かならず定まりぬ」も、同時であるとお見受け致します。

しかし、「かならず定まりぬ」と書かれましたのは、まだ浄土往生していないからです。

「一念慶喜する」人が、なぜ必ず浄土往生できるのか。それは「若不生者不取正覚」と誓われているからだ、という親鸞聖人の解説です。

つまり、この「生」は、「浄土往生」という意味になります。

>この一念の不思議を知らないから、「本願を信受」した、不可称不可説不可思議を説く「若不生者のちかい」の『和讃』を、古文の常識で読もうとする迷いから、あってはならぬ重大な誤釈を犯すこととなるのです。「信楽開発の一念」を古文の文法で理解できるなら、「不可称不可説不可思議の信楽」と言われた親鸞聖人のお言葉はウソになります。

「不可称不可説不可思議の信楽」ということと、「文法を無視して読んでよい」ということは違います。

貴方の主張は、「信楽まことに時いたる」を、親鸞聖人が文法を間違えられて、うっかり「信楽まことに時いたり」と書いてしまった、ということでしょうか?

正しく仏教を伝えようとされた親鸞聖人が、わざわざ古文の常識で読めないような、間違った文法で文章を書かれるはずがありません。

貴方は、文法を無視して読まれるから、解釈を間違えてしまったのだと思います。

>貴方の問(1)に対する回答
>今までも幾度となく答えたこと。それを示すために法論は今からだと、先日、答>えたばかりではありませんか。やがて分かります、慌てずに。

それを示すための法論は、もう終わりました。今回の御返答で、根拠は無い、と結論がでました。

1通や2通ならともかく、すでに60通以上のメールのやりとりをしました。
貴方は勤務中に書いておられるのかも知れませんが、私は仕事が非常に忙しく、最近は帰宅が殆ど深夜です。

貴方が、もし「親鸞聖人の教えを伝えたい」と思っている方ならば、まず最初に、親鸞聖人の文章を示すはずでしょう。

肝心な親鸞聖人の文章を、何百通もメールを出さなければ教えない、という人と、これ以上、お付き合いしている時間はありません。

>貴方の(2)に対する回答
>挙げられている3つのお言葉には、「さらに」などという愚かな言葉はありません。当然だからでしょう。

「生まれさせる」という言葉が重なるので、常識的に、「さらに」と付け加えただけです。「信楽に生まれさせた人を、極楽に生まれさせる」では、分かりにくいではありませんか。

しかも、これは文章の問題であって、「真実の信楽」が理解されているかどうかとは、関係のないことです。こんなことで人を「愚か」呼ばわりする貴方の、人間性を疑います。

>貴方の(3)に対する回答
>どんな巧みな例えでも、一分をあらわすものだという常識を早く持って頂きたい。

『「じゃ、なんのために勉強するのでしょうか」と、高校受験の努力の必要性をほのめかされている。それでは、我々の努力が「信楽をえる」のに間にあうかのように取りかねませんよ。』と批判する貴方は、常識を持っておられないことになりますね。よく分かりました。

>貴方の(4)に対する回答
>「弥陀の本願力」を「若不生者の念力」と言っては意味が違う、と言いたいのでしょう。でなければ、貴方の、1月14日のメールの意味がナンセンスだと言っているのです。

つまり、『貴方は、「弥陀の本願力」と「若不生者の念力」とは違う、と言われる。』という文章は、嘘だということですね。

嘘は、書かないで頂きたいものです。

私は1月14日に、
『私達が信楽に生まれるのは、「弥陀の本願力」によるものだということに異論はありませんが、「若不生者の念力」という言葉は、親鸞聖人の書かれた言葉でしょうか?貴方の作った言葉でしょうか?』
と書いています。

ここに、「若不生者の念力」という単語の意味は知らないと書いているですから、「同じ」とか「違う」などと書くはずもありません。

>貴方の(5)に対する回答
>有りません。メンタルテストしただけのこと、無用なお気遣いはお構いなく。

つまり、これも嘘だったということですね。

信仰にも関わる内容で、このような嘘を書かれるというのは、メンタルテストと言い訳されても、失礼千万、極まりないものです。

貴方が「信楽をえた」と書かれているのも、メンタルテストのための嘘なのでしょうか。

いずれにしましても、今回のメールで、若不生者の「生」を「信楽」とする根拠は存在しないことが、よく分かりました。

また、貴方の文章自体が、何が本当で、何が嘘か分からない文章だということも、よく分かりました。

貴方が、最後の最後まで、まともな議論をせず、逃げ続けたことは、本当に残念です。

根拠の無い、貴社の独自の説だということが分かりましたから、もうお答え下さらなくて結構です。

田中一憲

2008 1/28(月) 17:36 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

多忙を極めているのはお互いのこと、悲鳴をあげてはならない、ことです。いい加減に打ち切りたいのは良く分かるが、総ては貴方が申し出たこと。一実・円満の真教・真宗の親鸞聖人の教えを、ウヤムヤのままに済ますことは許されません。

祖師聖人が、かの俊才の善恵房に対してさえ、大諍論をされねばならなかったことである。先ず、問題の重大性、肝心性の認識と自覚を分かって貰わねばならない。そんな60通や100通のメールのやりとりで、親鸞聖人の真教が理解できると思っていられるのか、と言わざるを得ません。

特に貴方は、当社に対して、「親鸞聖人が仰っていないことを描き、ビデオを販売している」とまで放言している。この暴言は我々の決して忘れ得ぬ、許せる言葉ではありません。どちらが、正しい親鸞聖人の教えかハッキリするまでは、断じて貴方の打ち切り要望に応ずることはできない。当然でしょう。

弥陀の本願は信じられぬが、親鸞聖人のお言葉には従うと、おかしなことを言われる貴方だから提言しましょう。
「本願成就文」40字の教えの外に、親鸞聖人の教えはありませんが、その「願成就」の教えに貴方の言う、「若不生者」の「生」は、「死んで極楽に生まれることだけ」と教えられているところがありますか。あればお示し頂きたい。それこそ親鸞聖人のお言葉ですから。

親鸞聖人が生涯、このほか説かれなかった一実円満の真教「願成就文」には、「弥陀の本願」が詳説されていますが、「信心歓喜乃至一念」も、「願生彼国」も、「即得往生」も、「住不退転」も、みな不体失往生、現生不退、平生業成の「この世の救い」以外に説かれていません。
これが「弥陀の本願」の淵源であり、「若不生者のちかい」の真意であるからです。この「若不生者」の極意を開顕されたのが親鸞聖人の教えです。この「願成就文」の教えを知れば、「若不生者」の「生」は、「死んで極楽に生まれることだけ」と理解するのは親鸞聖人の教えでないことが分かって頂けると思います。
「本願成就文」に、「死んでからのこと」が説かれているところがあればお示し下さい。

「一念慶喜する」のは、「若不生者不取正覚」と誓われているからだ、という親鸞聖人の開説です。だからこの「生」は、「一念慶喜する身」に「生まれさせる」という意味です。

「文法を無視してではなく、文法の通用しないことだ」ということです。不可称、不可説の言葉にかからない境地の表現だから、間違った文法も、へちまも、あるはずないではないか、と言っているのです。

貴方は、文法の通用しないものを、文法の常識で読もうとしているから解釈を間違えてしまうのだと思います。

今度貴方は、『「若不生者の念力」という単語の意味を知らない』と仰った。そんな人が、どうして「若不生者」の意味を論ずることができるのか。逃げ口上はありありですが、前述のように、当社の製品を誹謗中傷なされているのだから、貴方には重い責任と義務があります。
どちらが、親鸞聖人の正しい教えなのか、ハッキリするまで答えて頂かねばなりません。辻斬り強盗のような真似だけは避けて頂きたい。

(株)チューリップ企画  サービス課  山田

2008 1/29(火) 22:06 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画  サービス課  山田様

> 一実・円満の真教・真宗の親鸞聖人の教えを、ウヤムヤのままに済ますことは許されません。

来ないと思っていたメールが来たので、今度こそ、「若不生者」の「生」は「信楽」であるという根拠が書かれてあるかと期待しましたが、またウヤムヤにされましたね。そんな人にメールを送り続けることに、何の意味があるのでしょうか?

> そんな60通や100通のメールのやりとりで、親鸞聖人の真教が理解できると思っていられるのか、と言わざるを得ません。

私が質問しているのは、親鸞聖人の記述された根拠だけです。理解する、理解しないは、その次の問題です。問題をすり替えないで下さい。

> 特に貴方は、当社に対して、「親鸞聖人が仰っていないことを描き、ビデオを販売している」とまで放言している。

今回の法論で、貴社は、一つも親鸞聖人の根拠を示すことが出来なかったのですから、親鸞聖人が仰っていないことが証明されたと思います。

> 弥陀の本願は信じられぬが、親鸞聖人のお言葉には従うと、おかしなことを言われる貴方だから提言しましょう。

まだ信楽をえていない人が、親鸞聖人のお言葉に従うことは、おかしなことだと仰るのですね。

貴方は「信楽をえた」と自称されますが、仮にそうだとすれば、信楽を得られるまでは、弥陀の本願を疑っていたはずです。貴方は、信楽を得られるまで、親鸞聖人のお言葉に従っていなかったのでしょうか?

信楽を得られるまで、親鸞聖人のお言葉に従う必要がないのなら、誰に対して、親鸞聖人は教えを説かれたのでしょうか?

きっと、貴方は親鸞聖人のお言葉に従わずに、信仰を求めてこられたのでしょう。そんな貴方が「信楽をえた」と言われましても、「また、メンタルテストか。」としか思えません。

> 「本願成就文」40字の教えの外に、親鸞聖人の教えはありませんが、その「願成就」の教えに貴方の言う、「若不生者」の「生」は、「死んで極楽に生まれることだけ」と教えられているところがありますか。あればお示し頂きたい。

「若不生者」の「生」を「死んで極楽に生まれること」と、親鸞聖人が教えられていることは、貴方も認められている通りです。
「死んで極楽に生まれること」以外の意味があると、貴方が主張されるなら、その説明責任は貴方にあります。

「有る」と「無い」で意見が分かれたときは、「有る」と主張するものが説明責任を負うのが当然のことです。
これは議論の常識であって、このような常識も踏まえられずに、上記のような質問をされるのは、なぜでしょうか?

それは「死んで極楽に生まれること」以外の意味がある根拠が、見つからないからとしか考えられません。

> 親鸞聖人が生涯、このほか説かれなかった一実円満の真教「願成就文」には、「弥陀の本願」が詳説されていますが、「信心歓喜乃至一念」も、「願生彼国」も、「即得往生」も、「住不退転」も、みな不体失往生、現生不退、平生業成の「この世の救い」以外に説かれていません。

「この世の救い」で救われた人が、死んで極楽浄土に生まれることが、「若不生者」の「生」だと、親鸞聖人が書かれています。

『至心信楽の帰命の一心、他力よりさだまるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識におうて、聞持する平生のきざみに治定するあいだ、この穢体亡失せずといえども、業事成弁すれば、体失せずして往生すと、いわるるか。』

このように、「即得往生」の「往生」は「至心信楽の帰命の一心」であることを説明され、さらに、

『「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり』

「至心信楽の帰命の一心」をえた人が、極楽浄土に生まれることが「若不生者」だと解説されていますので、「願成就文」から考えても、貴社の解釈の誤りは明らかだと思います。

> これが「弥陀の本願」の淵源であり、「若不生者のちかい」の真意であるからです。この「若不生者」の極意を開顕されたのが親鸞聖人の教えです。

「若不生者のちかい」の真意を開顕された、親鸞聖人が、唯信抄文意に次のように書かれています。

『「来」は浄土へきたらしむという。これすなわち「若不生者のちかい」をあらわす御のりなり。穢土をすてて、真実報土へきたらしむとなり。』

このことからも、「若不生者のちかい」の「生」は、真実報土に生まれることだということが分かります。

> 「一念慶喜する」のは、「若不生者不取正覚」と誓われているからだ、という親鸞聖人の開説です。だからこの「生」は、「一念慶喜する身」に「生まれさせる」という意味です。

> 「文法を無視してではなく、文法の通用しないことだ」ということです。不可称、不可説の言葉にかからない境地の表現だから、間違った文法も、へちまも、あるはずないではないか、と言っているのです。

> 貴方は、文法の通用しないものを、文法の常識で読もうとしているから解釈を間違えてしまうのだと思います。

親鸞聖人の書かれた文章に対して、「間違った文法も、へちまもあるはずない」と仰るのですか?

貴方は、正しい文法で書かれたものを、文法の常識も知らずに読まれたから、解釈を間違えたのだと思います。

> 今度貴方は、『「若不生者の念力」という単語の意味を知らない』と仰った。そんな人が、どうして「若不生者」の意味を論ずることができるのか。逃げ口上はありありですが、前述のように、当社の製品を誹謗中傷なされているのだから、貴方には重い責任と義務があります。

浄土真宗のデータベースにある、全ての聖教(三部経や七祖も含む)の検索をかけましたが、「若不生者の念力」という単語は見つかりませんでした。貴方が、「若不生者の念力」という単語を知っておられるなら、どの聖教に書かれている言葉か、教えて下さい。

知っておられるなら、当然、すぐに答えられるはずです。何百通とメールをやりとりすれば教えるという、「逃げ口上」は御遠慮ください。次のメールで、「この聖教に書かれてある。」と示せなければ、「若不生者の念力」という言葉も嘘だったと判断いたします。

田中一憲

2008 1/30(水) 17:41 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

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田中様

ウヤムヤにしてはならないのは親鸞聖人の教えです。誰も否定しない根拠ではありません。

なぜ己の欲する「根拠だけ」を急ぐのか。一切が、親鸞聖人の教えを明らかにする為ではありませんか。間違ってはならない。正しい親鸞聖人の教えを明らかにしようと、勇敢にも斬り込んでこられたのは、貴方ではありませんか。超多忙はお互い様。こんな大事、なぜ、そんなに結論ばかりを急がれるのか、堅実に開顕しましょう。

明らかに法論は、まだ終わっていないのに、勝手に貴方の自説を結論とされるのか。読むに耐えない反論、とでも言っておきましょう。

「信楽をえていない人」は、絶対、親鸞聖人の教えに信順できないのです。親鸞聖人の教えに信順できないから、「信楽をえる」ことができないのです。「信楽をえて」はじめて親鸞聖人のお言葉に信順できるのです。「信楽をえていない人」が、親鸞聖人のお言葉に信順できますか。

貴方は今まで、『「信楽」をえた人は、必ず、「死んだら極楽に生まれる」』という、誰も否定していない完全了解済みの、聖教の根拠ばかりを、あれもこれもと幾たび出されたことでしょう。それしか出来ないことも分かるけど今度も同じ無駄をなさっている。もう、お止めになっても真実開顕に支障はありません。

どれだけ同じ言葉を重ねてきたことか、ご承知のはず、今、問われていることは、そんなこととは違うのです。いま明らかにしなければならない問題は、その肝心・肝要の「信楽」が、どうして我々に「生まれる」のか。なんの力で「生まれる」のか。人間の力でなければ、なんの働きなのか、ということ一つなのです。

それに貴方は全く答えてない。60通以上もやり取りしながら残念ながら、ただの一度も答えてはいない。「ハッキリ答えているじゃないか」と仰るなら、どこに何と答えていられるか、示して頂きたい。今、それ一つが問われているのですから。

貴方が、今まで挙げられた根拠の総ては、「信楽に生まれたら、極楽に生まれる」ことの根拠ばかりです。それは充分、了解のこと。その「信楽」は「どうして生まれるのか」「なんの力で生まれるのか」「いつ生まれるのか」、それに就いて「本願文での根拠」はどこか、「願成就文での御文」は何か、答えて頂きたいと思います。

我々を、その「信楽」に「生まれさせる」弥陀の本願、若不生者の誓の『淵源』『極意』『肝要』『真意』が説かれているのが「本願成就文」ですから、親鸞聖人は、「願成就文」の教えしか教えられなかったのです。その「願成就」の教えに「若不生者は、極楽浄土に生まれることだ」と、どこに説かれていますか。「本願成就文」のお言葉で示して下さい。

どんな人でも、不可称不可説不可思議の表現に、文法が間に合うと思っているのですか。反論は、混乱をもくろむ徒ごとにすぎません。

なぜ、「若不生者の念力」の単語を知る、知らないに、こだわるのか。意味か、内容か、はたまた時の浪費か、いずれにしてもおかしい。どうして親鸞聖人の教えを明らかにしようと立ち上がった方が、それに背を向けられるのでしょう。「浄土真宗のデータベース」にかからぬ、貴方の使用してきた単語を指摘しましょうか。くだらぬ泥試合は勿体ないです。

(株)チューリップ企画  サービス課  山田

2008 2/2(土) 23:06 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画  サービス課  山田様

>ウヤムヤにしてはならないのは親鸞聖人の教えです。誰も否定しない根拠ではあ
りません。

親鸞聖人の教えは、根拠に基づいて理解しなければなりません。根拠のない説は、親鸞聖人の教えとは言えないと思います。ウヤムヤにしてはならないのは「根拠」です。

>なぜ己の欲する「根拠だけ」を急ぐのか。一切が、親鸞聖人の教えを明らかにする為ではありませんか。間違ってはならない。正しい親鸞聖人の教えを明らかにしようと、勇敢にも斬り込んでこられたのは、貴方ではありませんか。超多忙はお互い様。こんな大事、なぜ、そんなに結論ばかりを急がれるのか、堅実に開顕しましょう。

>明らかに法論は、まだ終わっていないのに、勝手に貴方の自説を結論とされるのか。読むに耐えない反論、とでも言っておきましょう。

貴社に質問状を送らせて頂いて、約半年が過ぎました。根拠を尋ねるのと、結論を急ぐことは、全く違います。

根拠を出さずに議論を進めようとする貴方こそ、「結論を急いでいる」と思います。

>「信楽をえていない人」は、絶対、親鸞聖人の教えに信順できないのです。親鸞聖人の教えに信順できないから、「信楽をえる」ことができないのです。「信楽をえて」はじめて親鸞聖人のお言葉に信順できるのです。「信楽をえていない人」が、親鸞聖人のお言葉に信順できますか。

「若不生者」の「生まれる」の解釈について、「親鸞聖人のお言葉に従う」と書いたのが、いつの間に「親鸞聖人の教えに信順する」に変わったのですか?

つまり、貴方の意見だと、信楽をえた人以外は、「親鸞聖人のお言葉に従う」と言ってはならないということですね。

>どれだけ同じ言葉を重ねてきたことか、ご承知のはず、今、問われていることは、そんなこととは違うのです。いま明らかにしなければならない問題は、その肝心・肝要の「信楽」が、どうして我々に「生まれる」のか。なんの力で「生まれる」のか。人間の力でなければ、なんの働きなのか、ということ一つなのです。

貴方の言わんとしていることは、

(1)「信楽」が「生まれる」のは、阿弥陀仏の力による。
(2)チューリップ企画では、阿弥陀仏の力を、「若不生者の念力」と呼んでいる。
(3)「若不生者の念力」によって、「信楽」が「生まれる」のだから、「若不生者」の「生」は、「信楽が生まれる」という意味である。

この三段論法を主張されたいようですが、(2)の「若不生者の念力」という言葉は、造語であることが明らかになりました。

法論において、造語は根拠とならないことは、貴方も承知のことと思います。

だから、「阿弥陀仏の力」=「若不生者の念力」ということを、私に認めさせようとしたのでしょう。

そして、私が認めないと、「どこが違うのか」と難詰されます。

そもそも「若不生者の念力」という言葉が造語なのですから、「同じ」とも「違う」とも、説明のしようがありません。

このような議論の進め方自体が、法論とはかけ離れたやり方だと思います。

>それに貴方は全く答えてない。60通以上もやり取りしながら残念ながら、ただ
の一度も答えてはいない。「ハッキリ答えているじゃないか」と仰るなら、どこ
に何と答えていられるか、示して頂きたい。今、それ一つが問われているのです
から。

1月14日に、『私達が信楽に生まれるのは、「弥陀の本願力」によるものだということに異論はありません』と、ハッキリ答えましたが、貴方は自分の望んでいる答え以外は、答えと認められないのでしょうか?

>貴方が、今まで挙げられた根拠の総ては、「信楽に生まれたら、極楽に生まれる」ことの根拠ばかりです。それは充分、了解のこと。その「信楽」は「どうして生まれるのか」「なんの力で生まれるのか」「いつ生まれるのか」、それに就いて「本願文での根拠」はどこか、「願成就文での御文」は何か、答えて頂きたいと思います。

「信楽」は「どうして生まれるのか」、「なんの力で生まれるのか」、「いつ生まれるのか」ということは、本願文には明示されておりません。

だからこそ、釈迦が本願成就文で説明されたのです。

「どうして生まれるのか」 →「聞其名号」
「なんの力で生まれるのか」→「名号」
「いつ生まれるのか」   →「乃至一念即得往生」

「名号」は「阿弥陀仏の本願」によって成就されたものですから、「必ず極楽浄土に往生させる(若不生者不取正覚)」という力が納まっています。

>我々を、その「信楽」に「生まれさせる」弥陀の本願、若不生者の誓の『淵源』『極意』『肝要』『真意』が説かれているのが「本願成就文」ですから、親鸞聖人は、「願成就文」の教えしか教えられなかったのです。その「願成就」の教えに「若不生者は、極楽浄土に生まれることだ」と、どこに説かれていますか。「本願成就文」のお言葉で示して下さい。

先に示したように「名号」が、それに当たると思います。

>どんな人でも、不可称不可説不可思議の表現に、文法が間に合うと思っているの
ですか。反論は、混乱をもくろむ徒ごとにすぎません。

親鸞聖人の記述を、正しく理解しようとすれば、正しい文法で読まねばならないことは当然のことです。

>なぜ、「若不生者の念力」の単語を知る、知らないに、こだわるのか。意味か、内容か、はたまた時の浪費か、いずれにしてもおかしい。どうして親鸞聖人の教えを明らかにしようと立ち上がった方が、それに背を向けられるのでしょう。「浄土真宗のデータベース」にかからぬ、貴方の使用してきた単語を指摘しましょうか。くだらぬ泥試合は勿体ないです。

貴方が、「若不生者の念力」という言葉に、こだわっておられるからです。何度も尋ねられるから、その都度、「知らない」と答えざるを得ないではありませんか。

私が、「浄土真宗のデータベース」に無いような言葉を根拠にして議論を進めたり、貴方に意味を尋ねたりしたことがあったでしょうか?

あるなら指摘して頂きたく思います。

田中一憲

2008 2/4(月) 11:57 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

先ず、聞きたいことからお尋ねしましょう。
今度のメールで貴方が言われた、『「若不生者不取正覚」という力の納まっている「名号」』と、『「若不生者不取正覚」という力』とは、どこが違うのでしょうか。明示して頂きたい。

また、『「若不生者不取正覚」という力』とか、『「若不生者不取正覚」という力の納まっている「名号」』とか、そんな言葉は、「浄土真宗のデータベース」にありませんが、そんな言葉を根拠にして、議論を進めてはならないと言われているのは貴方です。親鸞聖人、どこに仰っているお言葉でしょうか。根拠を教えて下さい。

「親鸞聖人のお言葉に従う」とは言ったが、「親鸞聖人の教えに信順する」とは言ったことがない、と不満を漏らされている。それでは貴方にとって、「親鸞聖人のお言葉に従う」ということと、「親鸞聖人の教えに信順する」とは、どこがどう違うのですか。

またまた、何度、「本願力」と「若不生者の念力」との違いを聞かれても、「同じ」とも「違う」とも言えない、とおっしゃった。その理由は、「説明のしようがない」からだと。
最近どうしてか、意味が同じでも言葉を変えると、貴方はごねられる。当方は意味が変わらない限り、自由な表現を受け入れます。

特に「若不生者の念力」について貴方は、恥も外聞もお構いなしで、「データベース」まで持ち出し滑稽なほどに必死である。貴方の言った「本願力」に関することなのだから、「意味が違うから」、「嫌いな言葉だから」、「どちらか言えば後で困るから」とか、なんとか言って然るべきと思うのだが、その拒みようは尋常ではありません。しかもだ、己の都合の悪い返答を求めるのは「法論と、かけ離れたやり方」と言われては、またなにをか言わんや、と言わざるをえません。

「若不生者不取正覚」という力によって成就した「名号」に、「若不生者不取正覚」という力が納まっているのは当然です。だから「信楽」が「生まれる」のは、「若不生者」の力ではありませんかと言っているのです。「信楽」に生まれさせる力が「名号」にはあるが、「本願」にはないのですか。「本願文」に「信楽」に「生まれさせる」のは、「若不生者不取正覚」という力だとハッキリ誓われているではありませんか。

『「信楽」に「生まれさせる」のは、「名号」だと思います』と貴方は仰った。
「思います」では貴方の説です。「法論において、己の思いや造語は根拠とならない」「根拠のない説は親鸞聖人の教えとは言えない」と言ったのも貴方です。もっと自己の発言には自覚を持って頂きたいものである。『「信楽」に「生まれさせる」のは「名号」だ』の、「根拠」を明示して下さい。

文法で、不可称不可説を表現しようとされた記述が読めますか、と言っているのです。

(株)チューリップ企画  サービス課  山田

2008 2/8(金) 22:33 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画  サービス課  山田様

>今度のメールで貴方が言われた、『「若不生者不取正覚」という力の納まっている「名号」』と、『「若不生者不取正覚」という力』とは、どこが違うのでしょうか。明示して頂きたい。

>また、『「若不生者不取正覚」という力』とか、『「若不生者不取正覚」という力の納まっている「名号」』とか、そんな言葉は、「浄土真宗のデータベース」にありませんが、そんな言葉を根拠にして、議論を進めてはならないと言われているのは貴方です。親鸞聖人、どこに仰っているお言葉でしょうか。根拠を教えて下さい。

『「若不生者不取正覚」という力』とか、『「若不生者不取正覚」という力の納まっている「名号」』などという言葉を、私がいつ、使いましたでしょうか?

確かに、『必ず極楽浄土に往生させる(若不生者不取正覚)」という力が納まっています。』とは、書きました。

「必ず極楽浄土に往生させる」の部分を削除し、さらに括弧も外して作った言葉でしょうか?

一字一句違わず引用して欲しいとは言いませんが、これは常識の範囲外だと思います。

私が(若不生者不取正覚)と付け加えたのは、「必ず極楽浄土に往生させる」という誓いの根拠を示すためです。

貴方は、「若不生者不取正覚」を「極楽浄土に生まれる意味だけ」ということには同意されていませんが、「極楽浄土に生まれる」と親鸞聖人が教えられていることには同意されているはずです。

だから、「必ず極楽浄土に往生させる」という誓いの根拠として、(若不生者不取正覚)と付け加えることに、問題はないだろうと思って書いただけです。

括弧内だけを抜き出されて、新しい言葉を作り、私が書いたかのように議論を進められるのは、やめて頂きたく思います。

>「親鸞聖人のお言葉に従う」とは言ったが、「親鸞聖人の教えに信順する」とは言ったことがない、と不満を漏らされている。それでは貴方にとって、「親鸞聖人のお言葉に従う」ということと、「親鸞聖人の教えに信順する」とは、どこがどう違うのですか。

貴方が「親鸞聖人のお言葉に従う」と、「親鸞聖人の教えに信順する」は同じだと主張されるなら、その違いを説明しましょう。

その前に、貴方の立場を確認させて頂きますが、貴方は「親鸞聖人のお言葉に従う」と、「親鸞聖人の教えに信順する」は同じだという主張で宜しいですね?

>またまた、何度、「本願力」と「若不生者の念力」との違いを聞かれても、「同じ」とも「違う」とも言えない、とおっしゃった。その理由は、「説明のしようがない」からだと。

私は、『そもそも「若不生者の念力」という言葉が造語なのですから、「同じ」とも「違う」とも、説明のしようがありません。』と書きました。

「同じ」とも「違う」とも言えない理由は、誰が読んでも、『「若不生者の念力」という言葉が造語なのですから』です。

私の主張を、勝手に変更しないで頂きたく思います。

>最近どうしてか、意味が同じでも言葉を変えると、貴方はごねられる。当方は意味が変わらない限り、自由な表現を受け入れます。

「意味が同じでも」という点に、異論を申しております。

>特に「若不生者の念力」について貴方は、恥も外聞もお構いなしで、「データベース」まで持ち出し滑稽なほどに必死である。

貴方が「若不生者の念力」という言葉を、無理やりに私に認めさせようとしました。

>貴方の言った「本願力」に関することなのだから、「意味が違うから」、「嫌いな言葉だから」、「どちらか言えば後で困るから」とか、なんとか言って然るべきと思うのだが、その拒みようは尋常ではありません。

ところが、「根拠を示してほしい」と尋ねたところ、造語であることが分かりました。今度は、まるで私が好き嫌いで拒んだように書かれます。
造語を根拠に、議論を進めようとするのを拒むのは、当然ではないでしょうか?

>しかもだ、己の都合の悪い返答を求めるのは「法論と、かけ離れたやり方」と言われては、またなにをか言わんや、と言わざるをえません。

私が「法論と、かけ離れたやり方」と書いたのは、造語を根拠に議論を進めるやり方のことです。よく読んでください。

>「若不生者不取正覚」という力によって成就した「名号」に、「若不生者不取正覚」という力が納まっているのは当然です。

『「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。』という意味で仰っておられるならば同意です。

>だから「信楽」が「生まれる」のは、「若不生者」の力ではありませんかと言っているのです。

このように主張するためには、「若不生者」の「生」が「信楽が生まれる」という意味だ、という根拠が必要です。その根拠が、まだ示されていません。

>「本願文」に「信楽」に「生まれさせる」のは、「若不生者不取正覚」という力だとハッキリ誓われているではありませんか。

どこにハッキリと誓われていますか?
何回も同じことをお尋ねしています。

>『「信楽」に「生まれさせる」のは、「名号」だと思います』と貴方は仰った。
>「思います」では貴方の説です。「法論において、己の思いや造語は根拠とならない」「根拠のない説は親鸞聖人の教えとは言えない」と言ったのも貴方です。もっと自己の発言には自覚を持って頂きたいものである。『「信楽」に「生まれさせる」のは「名号」だ』の、「根拠」を明示して下さい。

私が、いつ『「信楽」に「生まれさせる」のは、「名号」だと思います』と書いたでしょうか?

前回の貴方の質問と、私の返答は、以下の通りです。

『その「願成就」の教えに「若不生者は、極楽浄土に生まれることだ」と、どこに説かれていますか。「本願成就文」のお言葉で示して下さい。』

『先に示したように「名号」が、それに当たると思います。』

この文章を、どのように理解したら、『「信楽」に「生まれさせる」のは、「名号」だと思います』に、なるのでしょうか?

相手の主張を捏造して、議論を進めるということは、法論では以ての外と思います。

>その「信楽」は「どうして生まれるのか」「なんの力で生まれるのか」「いつ生まれるのか」、それに就いて「本願文での根拠」はどこか、「願成就文での御文」は何か、答えて頂きたいと思います。

この質問について、私は返答しましたが、貴方の答えを頂いておりません。
「本願文での根拠」についても、わざわざ尋ねられる程ですから、根拠をお持ちのはずです。
特に、私は「本願文での根拠」は知りませんので、あるなら教えて頂きたく思います。

田中一憲

2008 2/9(土) 15:32 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

『「必ず極楽浄土に往生させる(若不生者不取正覚)」という力』とは言ったが、『若不生者不取正覚という力』とは言っていない、と言って憚らぬ貴方です。だだっ子さんのような方には手間がかかりますが、原文を挙げておきましょう。

『「名号」は「阿弥陀仏の本願」によって成就されたものですから、「必ず極楽浄土に往生させる(若不生者不取正覚)」という力が納まっています』(これが貴方のメールです)

これは、『「名号」には、「必ず極楽浄土に往生させる(若不生者不取正覚)」という力が納まっている』ということではないのですか。

「親鸞聖人のお言葉に従う」と「親鸞聖人の教えに信順する」と同じかとのこと、是非そうあって貰いたいものです。違うという貴方の説を聞きましょう。

「本願力」と「若不生者の念力」は、「同じ」とも「違う」とも言えない理由は、『「若不生者の念力」という言葉が造語なのですから』と、またまた回答を拒否。丁度、牙城を死守する城主のようですね。

「本願文」のどこに、ハッキリ「信楽」に「生まれさせる」のは、「若不生者不取正覚」という力だと誓われているか、と仰る悲しい貴方。我々が不体失往生できるのも、現生に不退転の身になれるのも、平生に業事成弁できるのも、みな本願力によってであり、若不生者という力であり、不可思議の願力ではありませんか。

覚如上人は『改邪抄』に「生まるべからざるものを、生まれさせた」のは、本願の不思議である、と言われ、「若不生者の誓」を「超世の悲願」とも「横超の直道」とも言われるのだ、と仰っているでしょう。

その、「若不生者不取正覚」という力によって「生まれさせられた」慶喜を親鸞聖人は、「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」と仰っているのではないですか。死んで極楽に生まれてから仰ったことではないでしょう。

今、「不可思議の若不生者の願力」に遇わずして、どうして「誠なるかなや、弥陀の本願」の一念慶喜があるのですか。「若不生者の願力不思議」が今働かねば、親鸞聖人の不体失往生も、現生不退も、平生業成もあり得ないのです。

もし「若不生者」の「生」が「死んで極楽に生まれる」ことだけのことならば、「正定聚の身」になるのは「若不生者の不可思議の願力」ではないのか。また『愚禿鈔』の「前念命終」させられるのも、「若不生者の不可思議の願力」ではないのか。「後念即生」させられるのも、「即得往生」させられるのも、「不退転に住する」のも、「若不生者の不可思議の願力」ではないのか。
やはり、「死んで極楽に生まれる」ことだけの「若不生者のちかい」なのですか。

貴方の説は善慧房の教えであっても、親鸞聖人の教えにならないのです。

この度、『「信楽」に「生まれさせる」のは「名号」だと思います』と何時、私が言ったかと仰った。
では、『「信楽」に「生まれさせる」のは「名号」だと思います』は、間違いだと言われるのですね。また『相手の主張を捏造して、議論を進める』と言われても心外ですから確認しておきます。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田

2008 2/15(金) 21:51 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画 サービス課 山田様

>『「名号」は「阿弥陀仏の本願」によって成就されたものですから、「必ず極楽浄土に往生させる(若不生者不取正覚)」という力が納まっています』(これが貴方のメールです)

>これは、『「名号」には、「必ず極楽浄土に往生させる(若不生者不取正覚)」という力が納まっている』ということではないのですか。

貴方は、その私の言葉のメインの部分を削り、括弧まで外して、「若不生者不取正覚という力」という単語を作り、「そんな言葉を、親鸞聖人がどこに仰っているか」と尋ねてこられました。

「必ず極楽浄土に往生させる」というのは現代語ですから、そのまま聖教に無いのは当然ですし、その根拠として(若不生者不取正覚)と書いたことは、前回述べた通りです。

他人の言葉を改変し、その改変した言葉を根拠に非難されても困ると、申し上げているのです。

>「親鸞聖人のお言葉に従う」と「親鸞聖人の教えに信順する」と同じかとのこと、是非そうあって貰いたいものです。違うという貴方の説を聞きましょう。

貴方は、「親鸞聖人のお言葉に従う」と「親鸞聖人の教えに信順する」は違うという認識なのですね。そうでなければ、「是非そうあって貰いたい」という言葉は、絶対にありえません。だとすれば、説明するまでも無いことです。

>「本願力」と「若不生者の念力」は、「同じ」とも「違う」とも言えない理由は、『「若不生者の念力」という言葉が造語なのですから』と、またまた回答を拒否。丁度、牙城を死守する城主のようですね。

私の主張を、勝手に変更したことは認められたようですが、何の反省も、謝罪も無いのでしょうか?

>「本願文」のどこに、ハッキリ「信楽」に「生まれさせる」のは、「若不生者不取正覚」という力だと誓われているか、と仰る悲しい貴方。我々が不体失往生できるのも、現生に不退転の身になれるのも、平生に業事成弁できるのも、みな本願力によってであり、若不生者という力であり、不可思議の願力ではありませんか。

親鸞聖人が、どこに「我々が不体失往生できるのも、現生に不退転の身になれるのも、平生に業事成弁できるのも」、「若不生者という力」であると記述されているでしょうか?

これ一つが問題になっているにも関わらず、未だに貴方は一つも根拠を示せないでいます。

>覚如上人は『改邪抄』に「生まるべからざるものを、生まれさせた」のは、本願の不思議である、と言われ、「若不生者の誓」を「超世の悲願」とも「横超の直道」とも言われるのだ、と仰っているでしょう。

唯信鈔文意に『「来迎」というは、「来」は浄土へきたらしむという。これすなわち若不生者のちかいをあらわす御のりなり。穢土をすてて、真実報土へきたらしむとなり。』とあるように、「若不生者の誓」の「生」は「真実報土へ生まれる」の意味だということが記述されています。

>その、「若不生者不取正覚」という力によって「生まれさせられた」慶喜を親鸞聖人は、「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」と仰っているのではないですか。死んで極楽に生まれてから仰ったことではないでしょう。

親鸞聖人が「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」と仰っているのは、死んで極楽に生まれてから仰ったことではありません。

つまり、これは、「若不生者不取正覚」という力によって「生まれさせられた」、すなわち「本願の実報土に生まれさせられた」慶喜では無いということです。

親鸞聖人が、尊号真像銘文に『「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。』と記述されている通りです。

>今、「不可思議の若不生者の願力」に遇わずして、どうして「誠なるかなや、弥陀の本願」の一念慶喜があるのですか。「若不生者の願力不思議」が今働かねば、親鸞聖人の不体失往生も、現生不退も、平生業成もあり得ないのです。

同じことの繰り返しですが、「若不生者の願力不思議」という言葉が、もし存在するとすれば、「信楽をえた人が、極楽浄土に生まれられる力」と解釈すべきでしょう。根拠は、すでに挙げた通りです。

>もし「若不生者」の「生」が「死んで極楽に生まれる」ことだけのことならば、「正定聚の身」になるのは「若不生者の不可思議の願力」ではないのか。また『愚禿鈔』の「前念命終」させられるのも、「若不生者の不可思議の願力」ではないのか。「後念即生」させられるのも、「即得往生」させられるのも、「不退転に住する」のも、「若不生者の不可思議の願力」ではないのか。
>やはり、「死んで極楽に生まれる」ことだけの「若不生者のちかい」なのですか。

貴方の議論は、根拠を挙げずに、言葉遊びをしているだけのように思います。自説を百回述べるより、親鸞聖人の言葉を一つ挙げた方が、説得力があると思われないのでしょうか?

>貴方の説は善慧房の教えであっても、親鸞聖人の教えにならないのです。

「善慧房の教え」とは、どういう意味でしょうか?
「念仏さえ称えれば、死ねば必ず極楽浄土に連れていく」という解釈ですか?
これについては、聖教の記述と反することは、すでに述べた通りです。

貴方の言う「善慧房の教え」とは、どういう意味でしょうか?

>この度、『「信楽」に「生まれさせる」のは「名号」だと思います』と何時、私が言ったかと仰った。
>では、『「信楽」に「生まれさせる」のは「名号」だと思います』は、間違いだと言われるのですね。また『相手の主張を捏造して、議論を進める』と言われても心外ですから確認しておきます。

心外だと言われるなら、私が『「信楽」に「生まれさせる」のは「名号」だと思います』と何月何日に書いたか、根拠を挙げて頂きたく思います。

嘘の記述をしておられながら、何の反省も、謝罪も無いのでしょうか?

また、「信楽」は「どうして生まれるのか」「なんの力で生まれるのか」「いつ生まれるのか」、それに就いて「本願文での根拠」はどこか、「願成就文での御文」は何か、貴方の返答を頂いておりません。

なぜ、無視し続けられるのですか?
貴方が作った質問ですよ?
分からないのなら、「分かりません」と答えるべきだと思います。

私は、貴方の質問には、「知らない」「分からない」という返答も含めて、必ず何らかの反応をしております。

ところが、貴方は、私の質問には無視ばかりで、まともに文章を読まれているのか疑いたくなります。

何の意図があってのことか知りませんが、失礼極まりない態度だと思います。

田中一憲

2008 2/16(土) 14:52 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

貴方のメール、
『「名号」は「阿弥陀仏の本願」によって成就されたものですから、「必ず極楽浄土に往生させる(若不生者不取正覚)」という力が納まっています』
を提示して、
これは、『「名号」には、必ず極楽浄土に往生させる(若不生者不取正覚)という力が納まっている』ということではないのですかと、尋ねたのです。

それに対して、貴方の返信は、
『他人の言葉を改変し、「若不生者不取正覚という力」という単語を作り、それを根拠に非難されても困る』でした。
「括弧を外した」「私の言葉のメインを削った」などと仰るが、貴方の「言葉のメインとは何ですか」「意味がどう変わったのですか」
親鸞聖人の正しい教えを明らかにしたいの積極姿勢が少しも見られないのが残念。

「親鸞聖人のお言葉に従う」と「親鸞聖人の教えに信順する」こととは、違うと貴方が思っているのなら、同じだと言える貴方になって欲しいと願ってのことです。

「本願力」と「若不生者の念力」は、「同じ」とも「違う」とも言えないのは、『「若不生者の念力」という言葉が造語だから』と仰る。
それどころか説明ならぬ謝罪を求める始末。
「従来なかった表現もあって然るべきと思うが、飽くまで意味が変わらない範囲に留めねばならぬ」(平成19年10月20日、貴方のメールです)
チャンとした良識も余裕も持っていられたのに、あの良識と余裕は今いずこ?
などと思わせないで下さい。

親鸞聖人が何処に、「不体失往生」「現生不退」「平生業成」ができるのは、「若不生者という力」であると記述されているか。これ一つが問題になっているのに、山田は未だに一つも根拠を示せないでいると、またまた公言なさった。
「若不生者」の根拠にならぬ根拠を繰り返し出しながら、オレは出したが、お前は出せぬと、鬼の首でも取ったように何度、広言されたことか。そんなに広言したいのならば、親鸞聖人の主著『教行信証』や『愚禿鈔』でもいい、二、三挙げてみられたらいかがですか。弥陀の本願しか開顕されなかった親鸞聖人です。主著に「若不生者不取正覚」の真意が数多く説かれているはず。貴方の説の正当性を証せますよ。出せますか。

お前は出さぬと仰るが、今までどれだけ『教行信証』や『和讃』『愚禿鈔』など、明示してきたことか。「前念命終」「後念即生」「即得往生」「住不退転」が「若不生者不取正覚という力」でないとすれば、「前念命終」「後念即生」「即得往生」「住不退転」になれるのは、なんの力ですか。
「前念命終後念即生」の「生」は、「若不生者」の「生」ではないと言われている根拠を親鸞聖人のお言葉で示して下さい。

蓮如上人が「不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまう」と言われている「不可思議の願力」とは、「若不生者不取正覚という力」のことではないか。その「若不生者不取正覚という力」によって、我々に「往生は治定」の「信楽」が「生まれる」のではありませんか。
弥陀の本願を疑っている貴方には、これらの聖語が単なる言葉遊びの道具にしか思えないだけのことです。

親鸞聖人の主著『教行信証』や『愚禿鈔』などに一切記述されていないことを根拠に、「本願文」の肝心である「若不生者不取正覚」の真意も、「一実・円満の真教、真宗これなり」と言われている『本願成就文』の教えも踏みにじる、貴方のような主張を「善恵房の教え」と言うのです。

貴方が、『「信楽」に「生まれさせる」のは「名号」だと思います』などと、書いたことも言ったこともない、と言う確認ができればそれでよいのです。そんなにムキになる必要はありません。

(株)チューリップ企画  サービス課  山田

2008 2/21(木) 11:20 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

「信楽をえた人は、必ず極楽に生まれられる」。
メールの交換、数十回、貴方の挙げられたのは「この根拠」だけでした。双方、始めから異論のないこと(少なくとも貴方の合点だけでも)でした。

「その信楽が、どうして獲られるのか」。
最初から問われているのは、これ一つです。

当社が、あのビデオを出してから14年、斬り込んで来られたのは貴方だけ。勇敢さはそれなりに評価されたのに、こんなところで腰砕けでは、折角、「曲げられている親鸞聖人の教えを、正す」と、雄々しく登場した貴方の言動が、蛮勇だったのか真勇だったのか、いま試されているのです。

勝手に斬りつけておきながら形勢不利と見るや、なんとか追求から逃避しようと
逃げ廻っているだけでは、真実の開顕はできません。

(株)チューリップ企画  サービス課  山田

2008 2/22(金) 00:31 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画  サービス課  山田様

現在、大変重要な仕事を抱えており、来週辺りにはお返事できると思います。
貴方も、私の1通目のメールの返信が45日後、2通目のメールの返信は32日後でした。少しは待って頂けないでしょうか。

一言だけ加えますが、問題になっているのは「信楽がどうして獲られるのか」ではなく、「若不生者の生が、不体失往生だという根拠が有るか無いか」です。

貴社のビデオの内容に質問を送ったのは私なのですから、私の質問に答えて頂きたく思います。

重ねて確認しますが、私が貴社にお尋ねしているのは、「若不生者の生が、不体失往生だという根拠」ですので、問題点を勝手に変えられないよう、お願い致します。

田中一憲

2008 2/22(金) 12:59 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

別に返信を催促したのではありません。
いろいろ事情がおありでしょうから、お待ちしています。
ただ、「若不生者の生が、不体失往生だという根拠」と、「信楽(不体失往生)が、どうして獲られるか」は違う、という発言は無意味でしょう。

なぜ無意味と言ったのか。
『問題になっているのは「信楽が、どうして獲られるのか」ではなく、「若不生者の生が、不体失往生だという根拠の有無だ」』と、貴方は仰った。

それを、なぜ無意味と言ったのか。
『「若不生者」とは「必ず極楽に生まれさせる」ということだ』と貴方は言う。
同じ貴方が、また言うのだ。
『この世で信楽に生まれた人だけが、極楽に生まれられる』のだと。

それでは、「必ず極楽に生まれさせる」とは「必ず信楽に生まれさせる」と言うことではありませんか。
無意味な発言と言った意味が分かられたでしょうか。

ついでに申しあげておきますが、先便で何度も貴方が言われていたように、自分の本意が伝わらなかったと言って、やたらに相手を罪人扱いし何の根拠もなしに、「反省」「謝罪」を要求するものではないでしょう。
それよりも、そんな表現しか出来なかったことを反省し、重ねて真意が伝わるよう努める心得が大切なのではないでしょうか。特に仏法者には。

(株)チューリップ企画  サービス課  山田

2008 2/27(水) 00:17 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画  サービス課  山田様

>ついでに申しあげておきますが、先便で何度も貴方が言われていたように、自分の本意が伝わらなかったと言って、やたらに相手を罪人扱いし何の根拠もなしに、「反省」「謝罪」を要求するものではないでしょう。
>それよりも、そんな表現しか出来なかったことを反省し、重ねて真意が伝わるよう努める心得が大切なのではないでしょうか。特に仏法者には。

もちろん、私の書き方が分かりにくくて、誤解を与えた表現があれば、反省しなければならないと思います。

しかし、私が、どこにも書いていないことを、私が書いたかのように非難されたり、明らかに違う意味に摩り替えられているものを、どのように反省したら良いのでしょうか?

故意ならば論外ですし、貴方が誤読されたのであれば、貴方がまず反省すべきであって、私に反省を要求するのは筋違いというものです。

相手の主張を正しく受け止め、それに答えてゆかねば、議論になりません。相手の主張を歪曲したり、相手の質問を無視していては、議論にならないと思います。

このようなことが繰り返されても、まともな議論になりませんので、今一度、お互いの立場を明らかにしておきたいと思います。

お互いの立場が明らかでなければ、議論になりませんので、もしまともに議論をする気持ちがあるのであれば、以下の確認事項にお答えください。返答は、番号だけで結構です。補足を加えて頂いても結構ですが、必ず番号でお答えください。

お互いの立場が明らかになった上で、議論を続けさせて頂きたいと思います。

確認(1)

「若不生者不取正覚」の「生」の意味は…

(A)信楽をえた人が「極楽浄土」に「生まれる」という意味であって、「信楽をえる」という意味ではない。

(B)信楽をえた人が「極楽浄土」に「生まれる」という意味と、「信楽をえる」という意味と、両方がある。

(C)信楽をえた人が「極楽浄土」に「生まれる」という意味ではない。

私は(A)です。

確認(2)

「若不生者不取正覚」の「生」は、「信楽をえる」という意味だと明言された親鸞聖人のお言葉は…

(A)存在しない。

(B)直接そのように仰った言葉はないが、親鸞聖人の教えを理解すれば、そのように解釈できる。

(C)存在する。

私は(A)です。

確認(3)

貴方が、「若不生者不取正覚」の「生」は、「信楽をえる」という意味だと解釈された根拠は…

(A)ない。

(B)そのように明言された親鸞聖人の記述があるから

(C)「若不生者の念力」によって、信楽をえられるから。

(D)信楽をえた人は必ず極楽往生できるから、「必ず極楽往生させる」ということは「必ず信楽をえさせる」と同じ意味である。

(E)その他の理由。

私は(A)です。

これは双方の主張を確認するためのものですから、理由は必要ありません。

なお、先便でも申し上げましたように、非常に重要な仕事を抱えており、返信が遅くなりますことを、あらかじめお詫び申し上げます。

田中一憲

2008 2/27(水) 14:42 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

非常に重要なお仕事中、ご返信大変だったことでしょう。お察し申します。決し
て無理は申しませんので、体調を崩されないよう努めて下さい。

さて、こちらは始めから明らかなことでしたが、これで貴方が望まれているように、双方の対立点が明確になりましょうから、どちらが親鸞聖人の正しい教えなのか、真実開顕にお互い尽力いたしましょう。

確認(1)の(B)の、設問の不適当なところを補足修正し、以下のように是認します。
「弥陀の若不生者不取正覚」の「生」は、「信楽」に「生まれさせ」「極楽浄土」に「生まれさせる」というのが、親鸞聖人の教えです。

確認(2)の(B)を、補足修正すれば、
『「若不生者不取正覚」の「生」は、「信楽をえる」という意味だ』という言葉は、貴方の言い方だから、勿論、同じ言葉が親鸞聖人にあるはずがありませんが、親鸞聖人の教えの総ては前述の、(1)の(B)で言ったことの開顕であり、「若不生者不取正覚」を「死んで極楽に生まれるだけのこと」とする、誤りを正され弥陀の願意を明らかにせられたお言葉ばかりだからです。

確認(3)の、返答。
(1)の(B)、(2)の(B)で答えた通り、その外に親鸞聖人の教えはないからです。

最後に、貴方の三つの断言を記録しておきます。後日、なにかと便利かもしれませんから。
(1)信楽をえた人が「極楽浄土」に「生まれる」という意味であって、「信楽をえる」という意味ではない。
(2)「若不生者不取正覚」の「生」は、「信楽をえる」という意味だと明言された親鸞聖人のお言葉は存在しない。
(3)「若不生者不取正覚」の「生」は、「信楽をえる」という意味と解釈された根拠はない。

(株)チューリップ企画  サービス課  山田

2008 3/4(火) 12:29 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

これは、決して返信の催促ではありませんので、お気になさらずに読んで下さい。
先々便(平成20年2月15日)でか、貴方から求められていた、以下のことに就いてですから。

『「信楽」は、「なんの力で生まれるのか」に就いて、「本願文での根拠」はどこか、「願成就文での御文」は何か、貴方の返答を頂いていない。なぜ無視されるのか? 貴方が作った質問ですよ?』
と聞かれています。

抑も、この度のメールのやり取りは、弥陀の本願の「若不生者不取正覚」の誓を、「必ず死んで極楽に生まれさせること」だけと主張される貴方に対して、「若不生者不取正覚」の誓は、必ず「信楽」に「生まれさせ」「死後、極楽に生まれさせる」ことだ、と言う意見の相異からなされていることは、今までの経緯を見れば明らかなことです。

故に当方は、「信楽」は「なんの力で生まれるのか」に就いて、陰に陽に明らかにしてきたのですが、この度「信楽」は「なんの力で生まれるのか」。「本願文での根拠」はどこか、「願成就文での御文」は何かと、要請を受け漸く本題に入ってこられたことになりました。

貴方は、『「信楽」は「どうして生まれるのか」、本願文には明示されておりません』と言われていますが、釈迦は『願成就文』に「聞其名号」と説かれ、親鸞聖人は、
「無碍光如来の名号と
かの光明智相とは
無明長夜の闇を破し
衆生の志願を満てたまう」
(高僧和讃)
と教えられているように、本願文にないことを釈迦や親鸞聖人が教えられる筈がありません。

これは、「弥陀の名号」には「無明長夜の闇を破し、衆生の志願を満てたまう」働きがあるとの親鸞聖人のお言葉です。「名号」には「破闇満願」の徳があり、我々を「信楽に生まれさせる」力があると言われています。

当方が、最初から主張していますように、我々に「信楽が生まれる」のは「本願文」で言えば「若不生者不取正覚」の念力、貴方の言葉で言えば「若不生者不取正覚という力」であり、「本願成就文」の御文で示せば「名号」だと、親鸞聖人の教えは明らかです。

その「名号」は「弥陀の本願」によって成就されたものですから、「信楽に生まれさせる力」のある「弥陀の本願」を、「若不生者のちかい」と、親鸞聖人は言われ、
「若不生者のちかいゆえ
信楽まことにときいたり
一念慶喜する人は
往生必ず定まりぬ」
(浄土和讃)
と讃嘆されているのです。

「必ず信楽に生まれさせる」という誓によって「必ず信楽に生まれるときがくる」のです。「信楽に生まれる」のは、「一念」の時尅の極促であり、破闇満願して大慶喜しますから、その人を「一念慶喜する人」と言われ、その「一念」で「極楽往生がハッキリします」から、「往生、必ず定まりぬ」と教えられているのです。

「若不生者不取正覚のちかい」は、死んでからだけのことではないのです。死んで極楽に生まれる前に、現生にて「心」の「往生」がなければなりません。それが「信楽に生まれる」ことであり、不体失往生とも現生不退とも平生業成とも教えられているのです。

『教行信証』のお言葉で言えば、「微塵劫を超過すれども仏願力に帰し難く、大信海に入り難し」の大信海に入ることができるのです。また、「億劫にも獲難し」と言われている、「真実の浄信」が獲られるのではありませんか。『正信偈』で示せば、「難中の難これに過ぎたるは無し」と言われている「信楽」を「受持」することも出来るのです。

弥陀の本願の「若不生者不取正覚」といえば、「死んでから極楽に生まれる」(体失往生)しか知らなかった当時の仏教界を震撼させたのが、この親鸞聖人の不体失往生であり、現生不退であり、平生業成の教えではありませんか。

その「若不生者不取正覚」の、阿弥陀仏の真意を、「信楽に生まれさせる」ことであり、不体失往生させることであり、現生で不退転の身にすることであり、平生に業事成弁させることであることを、八方総攻撃を受けながら九十年間、「身を粉に、骨砕き」、『恩徳讃』さながらに開顕し続けて往かれたのが親鸞聖人でした。この洪恩、我らいかに報ずべきでしょうか。

(株)チューリップ企画  サービス課  山田

2008 3/8(土) 22:28 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画  サービス課  山田様

繰り返し申し上げていることですが、貴方は本当に、まともな議論をする気があるのでしょうか?

>その「信楽」は「どうして生まれるのか」「なんの力で生まれるのか」「いつ生まれるのか」、それに就いて「本願文での根拠」はどこか、「願成就文での御文」は何か、答えて頂きたいと思います。

これが貴方からの質問です。これに対して私は、以下のように返答しました。

>「信楽」は「どうして生まれるのか」、「なんの力で生まれるのか」、「いつ生まれるのか」ということは、本願文には明示されておりません。

> だからこそ、釈迦が本願成就文で説明されたのです。

>「どうして生まれるのか」 →「聞其名号」

この文章を読んで、おそらく貴方は自分の間違いに気付かれたのでしょう。しかし、私が貴方に教えた内容を、今回のメールで、さも最初から知っていたかのような書き方をされています。

貴方は、「本願文での根拠」を、どこにも明示されていません。

さらに、私が使ってもいない「若不生者不取正覚という力」という言葉を、私が使ったかのように書かれています。

>当方が、最初から主張していますように、我々に「信楽が生まれる」のは「本願文」で言えば「若不生者不取正覚」の念力、貴方の言葉で言えば「若不生者不取正覚という力」であり、「本願成就文」の御文で示せば「名号」だと、親鸞聖人の教えは明らかです。

私が使ったのは、『「必ず極楽浄土に往生させる(若不生者不取正覚)」という力』という言葉であり、貴方が「若不生者不取正覚という力」と書き換えたことには抗議いたしました。

にも関わらず、このように書いてこられますし、しかも、私が使ったのとは全く違った意味に、貴方は使っています。このように、相手の主張を摩り替えるやり方にも、何回も抗議してきたと思いますが、改善するお気持ちはないのでしょうか?

>最後に、貴方の三つの断言を記録しておきます。後日、なにかと便利かもしれませんから。
>(1)信楽をえた人が「極楽浄土」に「生まれる」という意味であって、「信楽をえる」という意味ではない。

『「若不生者不取正覚」の「生」の意味は、』という主語を、何のために削除されたのでしょうか。この部分があると、何か都合が悪いのでしょうか?

2月21日の貴方のメールも

>「信楽をえた人は、必ず極楽に生まれられる」。
>メールの交換、数十回、貴方の挙げられたのは「この根拠」だけでした。

このように書かれてありましたが、私が挙げたのは、「若不生者不取正覚」の「生」は、「信楽をえた人は、必ず極楽に生まれられる」という意味だという根拠です。

「若不生者不取正覚」の「生」は、という部分が一番大事なのであって、そこを削って、私の主張を歪曲しないで頂きたいと思います。

ついでに、細かいことですが、

>(3)「若不生者不取正覚」の「生」は、「信楽をえる」という意味と解釈された根拠はない。

原文だと、『貴方が、「若不生者不取正覚」の「生」は、「信楽をえる」という意味だと解釈された根拠はない。』のはずです。「貴方が」という主語を、わざわざ削除されたのは何故でしょう。主語がなければ、当然、意味が変わってきます。

私の質問にも、答えているようで、肝心なことには、お答え頂いていないように思います。

>「弥陀の若不生者不取正覚」の「生」は、「信楽」に「生まれさせ」「極楽浄土」に「生まれさせる」というのが、親鸞聖人の教えです。

「若不生者不取正覚」の「生」に、「信楽」に「生まれさせる」という意味があるのですか?

「若不生者不取正覚」の「生」は、「極楽浄土」であって、「極楽浄土」に生まれさせるためには、信楽をえる必要があるから、結果的に、信楽にも生まれられると仰いたいのですか?

ここの部分をお尋ねしたかったのですが、肝心な所が分かりませんでした。

>『「若不生者不取正覚」の「生」は、「信楽をえる」という意味だ』という言葉は、貴方の言い方だから、勿論、同じ言葉が親鸞聖人にあるはずがありませんが、

これは、現代語だから、ということですか?
当然のことと思って書きませんでしたが、そういう意味の言葉ということです。

設問を訂正します。

確認(2)

『「若不生者不取正覚」の「生」は、「信楽をえる」という意味だ』という意味の内容を明言された親鸞聖人のお言葉は…

(A)存在しない。

(B)直接そのように仰った言葉はないが、親鸞聖人の教えを理解すれば、そのように解釈できる。

(C)存在する。

>確認(3)の、返答。
>(1)の(B)、(2)の(B)で答えた通り、その外に親鸞聖人の教えはないからです。

『貴方が、「若不生者不取正覚」の「生」は、「信楽をえる」という意味だと解釈された根拠は…』という質問に対して、「その外に親鸞聖人の教えはない」では返答になっていません。

もし、根拠があるならば、選択肢から答えられますし、「その他の理由」という選択肢さえ選べなかったのは、常識的に考えて、「根拠はありません」と返答されたと判断せざるを得ません。

双方が、相手の主張を正しく理解していなければ、そもそも議論は始まりません。

まずは、双方の主張と論拠、同意点と相違点を、整理して、明確にする必要があると思います。

主張の妥当性を議論するのは、その次の話です。

「重ねて真意が伝わるよう努める心得が大切なのではないでしょうか。特に仏法者には。」と仰る貴方だから、異論はないと思いますが、異論があれば仰ってください。

田中一憲

2008 3/9(日) 18:20 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

相当、混乱していらっしゃるようなので、仰る通り、双方の主張と論拠を明確にする必要があるようです。

お互い忙しい中、論じ合っているのは、阿弥陀仏の本願の「若不生者不取正覚」の「生」の仏意一つでしょう。
その「若不生者不取正覚」の「生」は、貴方が言われるように「必ず死んで極楽に生まれさせることだけ」なのか、それとも、当社が主張するように『必ず、「信楽」に「生まれさせ」、死後「極楽に生まれさせる」ことなのか』、ということです。

弥陀が正覚をかけて、「生まれさせる」と誓われているのは、死後だけのことか、この世から未来永遠のことなのかが、今、問われているのです。

(1)
「信楽」は「どうして生まれるのか」、「なんの力で生まれるのか」という当方の質問に、
貴方は、「本願文には明示されていない」と答えられています(2月2日のメール)。今回も、繰返されています。

当方は初めから、「若不生者不取正覚」の念力で「信楽は生まれる」と主張してきたことは過去のメールで明らかです。それを貴方の文章を読んで気づいたかのように勘違いされていますが、全くの誤解です。

(2)
では、願成就文にはどうか。
貴方は、
「どうして生まれるのか」 →「聞其名号」
「なんの力で生まれるのか」 →「名号」
と答えられています(2月2日のメール)。

しかも貴方は、
『「名号」は「阿弥陀仏の本願」によって成就されたものですから、
「必ず極楽浄土に往生させる(若不生者不取正覚)」という力が納まっています』と明言されています(同じく2月2日のメール)。

ところが今回「若不生者不取正覚という力」という言葉は使っていない、と言われるのは事実に反します。貴方の主張の根拠が、いま論じられている本願の御文「若不生者不取正覚」であり、その力の納まった「名号」によって「信楽が生まれる」ということを、貴方自身、認めておられることですよ。
「若不生者不取正覚という力」として、なぜいけないのですか。

本願を詳説された「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。あったら教えて下さい。当然ながら、「若不生者」は「死後、極楽に生まれさせる」だけという教えなど全くありません。これもあったらお示し下さい。

何度も心を鎮めて、ご自分の書かれたものをよくよくお読みになれば、お分かりになるはずです。当方には、貴方の主張を故意に曲げて論じたことは一度たりともありません。

名号に「破闇満願」の力があり、我々を「信楽」に「生まれさせる力」が「名号」にあることは、すでに親鸞聖人のお言葉で、お示ししました。

「若不生者不取正覚」の誓いが、死んでからだけのことではなく、この世で「信楽に生まれさせ」、死んで「極楽に生まれさせる」ことであることも、浄土和讃でお示ししました。

仏教の至極であり、弥陀の願意を釈尊が明らかにされた「本願成就文」には、弥陀の本願の「若不生者」の真意が、「即得往生住不退転」と明らかにされています。

この「即得往生」の意味を親鸞聖人は『愚禿鈔』に、「信受本願 前念命終 即得往生 後念即生」と明かされたのです。死んでからではない、この世で往生できるから、「不体失往生」といわれるのではありませんか。

「本願成就文」によって、弥陀の本願の「若不生者不取正覚」の真意が、不体失往生、平生業成、現生不退であることを生涯、開顕されたのが親鸞聖人であり、その主著『教行信証』は、そのこと一つを明らかにされたものです。

この親鸞聖人の教えを知れば、「弥陀が命をかけられているのは、死後だけのこと」というような主張は、絶対に出てこないのです。重ねて申しますが、この世で「信楽に生まれ」なければ、死後、「極楽に生まれる」ことは絶対に不可能なのですから「信楽に生まれさせる」ことにこそ、弥陀の命がかかるのは当然のことでしょう。そうでなければ、弥陀は「若不生者の誓い」を果たせないからです。

このことさえお分かりになれば、貴方の疑問はすべて霧消するでしょう。反論があれば、お待ちしています。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田

2008 3/16(日) 22:38 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画 サービス課 山田様

今回も、私の問いかけに対しては、殆ど無視されました。私のメールを、本当に読まれているのか、甚だ疑問です。

>(1)
>「信楽」は「どうして生まれるのか」、「なんの力で生まれるのか」という当方>の質問に、
>貴方は、「本願文には明示されていない」と答えられています(2月2日のメール)。今回も、繰返されています。

>当方は初めから、「若不生者不取正覚」の念力で「信楽は生まれる」と主張してきたことは過去のメールで明らかです。それを貴方の文章を読んで気づいたかのように勘違いされていますが、全くの誤解です。

私の文章を読めば分かられると思いますが、「私が貴方に教えた内容」というのは、「信楽」は「どうして生まれるのか」に就いて「願成就文での御文」は何か、という貴方の質問に対して、「聞其名号」と答えたことです。

このことは、貴方が、それまで一度も書かれていない内容です。

「若不生者不取正覚」の念力で「信楽は生まれる」というようなことは、私は一度も申したことがございませんので、そもそも「私が貴方に教えた内容」のはずがありません。

私の文章を、しっかり読んでいれば、貴方のような返答にならないと思います。

>しかも貴方は、
>『「名号」は「阿弥陀仏の本願」によって成就されたものですから、
>「必ず極楽浄土に往生させる(若不生者不取正覚)」という力が納まっています』と明言されています(同じく2月2日のメール)。

>ところが今回「若不生者不取正覚という力」という言葉は使っていない、と言われるのは事実に反します。

私は2月15日に、「若不生者不取正覚という力」と書き換えることを、明確に否定しました(以下に引用)。にも関わらず、何度も「若不生者不取正覚という力」と、こだわるのは何故でしょう。私の文章を、読んでおられないのでしょうか?

今後、『「必ず極楽浄土に往生させる(若不生者不取正覚)」という力』と、正確に引用されることを要請します。

(2月15日メール)
>> 貴方は、その私の言葉のメインの部分を削り、括弧まで外して、「若不生者不取正覚という力」という単語を作り、「そんな言葉を、親鸞聖人がどこに仰っているか」と尋ねてこられました。
>>
「必ず極楽浄土に往生させる」というのは現代語ですから、そのまま聖教に無いのは当然ですし、その根拠として(若不生者不取正覚)と書いたことは、前回述べた通りです。
>>
>> 他人の言葉を改変し、その改変した言葉を根拠に非難されても困ると、申し上げているのです。

>本願を詳説された「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。あったら教えて下さい。

「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていないから、「若不生者」は生きている間だと言われたいのでしょうか?

だとすれば、「若不生者」の「生」には、死後のことは一切含まれないということになりますが、そういう主張ですか?

>当然ながら、「若不生者」は「死後、極楽に生まれさせる」だけという教えなど全くありません。これもあったらお示し下さい。

「若不生者」は「信楽に生まれさせる」という意味だと、どこにも説かれていないからです。あったらお示し下さい。

>何度も心を鎮めて、ご自分の書かれたものをよくよくお読みになれば、お分かりになるはずです。当方には、貴方の主張を故意に曲げて論じたことは一度たりともありません。

既に示した通り、今回の貴方のメールも、私の主張を歪曲したものでした。

>「若不生者不取正覚」の誓いが、死んでからだけのことではなく、この世で「信楽に生まれさせ」、死んで「極楽に生まれさせる」ことであることも、浄土和讃でお示ししました。

貴方の解釈は、文法的に誤っていることは、既に示した通りです。

>仏教の至極であり、弥陀の願意を釈尊が明らかにされた「本願成就文」には、弥陀の本願の「若不生者」の真意が、「即得往生住不退転」と明らかにされています。

「即得往生住不退転」は、不体失往生であり、「若不生者」は極楽往生ですから、この2つを同じだと考えるのは誤りです。

>この親鸞聖人の教えを知れば、「弥陀が命をかけられているのは、死後だけのこと」というような主張は、絶対に出てこないのです。重ねて申しますが、この世で「信楽に生まれ」なければ、死後、「極楽に生まれる」ことは絶対に不可能なのですから「信楽に生まれさせる」ことにこそ、弥陀の命がかかるのは当然のことでしょう。そうでなければ、弥陀は「若不生者の誓い」を果たせないからです。

弥陀の十八願の約束が果されるのは、「信楽をえた時」ですか?「極楽往生した時」ですか?
お答え頂きたく思います。

>お互い忙しい中、論じ合っているのは、阿弥陀仏の本願の「若不生者不取正覚」の「生」の仏意一つでしょう。

私がお尋ねしているのは、「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉が有るのか、無いのかです。

有るのか、無いのかだけで結構です。
他の内容は後回しにされても結構ですから、この点だけは明確に御返答ください。

明確なご返答がなければ、無いと返答されたものと判断いたします。

なお、重ねて申し上げますが、「その外に親鸞聖人の教えはない」では返答になっていません。このような返答を認めていては、「親鸞聖人は念仏無間と教えた方だ。根拠はその外に親鸞聖人の教えはないからだ」という滅茶苦茶な理論も通ってしまいます。

「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを明確に仰った、親鸞聖人のお言葉が有るのか、無いのかということです。

無ければ無いとして、なぜ、そのように解釈されたかは、改めてお尋ねしますので、ご心配なくお答え下さい。これは、貴方の主張を正しく知るための質問ですので。

田中一憲

2008 3/17(月) 14:40 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

貴方の主張である、「本願の若不生者不取正覚」の「生」は、「死んで極楽に生まれるという意味のみ」だという根拠として、貴方が今日まで挙げられたものは、以下のものです。果たして、貴方の主張の根拠に成りうるものかどうか、検証してみましょう。

『「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」は、もし生まれずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころは、すなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。』(尊号真像銘文)

『「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生まれずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。』(尊号真像銘文)

『「来迎」というは、「来」は浄土へきたらしむという。これすなわち若不生者のちかいをあらわす御のりなり。穢土をすてて、真実報土へきたらしむとなり。』(唯信鈔文意)

以上の三つですが、いずれも明らかな通り、「若不生者不取正覚」は、「信楽をえた人、もし死んで極楽に生まれずは、正覚を取らじ」と教えられているものばかりです。
貴方の出されている根拠は、総て「信楽を獲た人」のみが極楽へ往けるという文証です。
「若不生者不取正覚」と誓われていても、誰もが「極楽に生まれる」ことが出来るのではないのですよ。「信楽を獲た人」だけが「極楽に生まれる」ことができるのですよ、と言われているお言葉です。「信楽を獲た」人だけなのですから、「若不生者不取正覚」は「死んで極楽に生まれる」だけという貴方の根拠にはならないのです。
「死んで極楽に生まれられる」か、否かは、偏に「信楽を獲た」か、否かに懸かっているのですから。

その肝心の「信楽を獲る」ことが、「信楽受持甚以難 難中之難無過斯」(正信偈)と、これ以上難しいことはないと、釈尊も親鸞聖人も蓮如上人も教えられている文証は、すでに挙げてある通りです。そんな「信楽」が、どうして獲られるのでしょうか。「本願文」で示して下さい。

当方は幾度も、我々に「信楽が獲られる」のは、「本願文」では「若不生者不取正覚」の不可思議の願力によってであり、「本願成就文」では「名号」の「破闇満願」の働きであり、親鸞聖人は、それを「愚禿鈔」や「浄土和讃」や「高僧和讃」で詳説されていることを繰り返し述べてきたことは、過去のメールを見れば明白です。無論、弥陀の十八願の「若不生者不取正覚」の約束が「誠だった」と「仏願の生起本末に疑心あることなし」となるのは、「信楽をえた時」ですよ。

ところが貴方は今度の返信でも、『「即得往生住不退転」は不体失往生であり、「若不生者」は極楽往生ですから、この2つを同じだと考えるのは誤りです』と仰った。
それでは「本願成就文」は「弥陀の本願」の開闡ではないのですか。お尋ね致します。

弥陀は「極楽浄土に生まれさせる」ために、難中之難無過斯の「信楽に生まれさせる」ことに、「若不生者」と「正覚」を懸けられているのではありませんか。
その「若不生者不取正覚」の真意を釈尊が開顕されたのが『本願成就文』でしょう。だから親鸞聖人は『本願成就文』を「一実・円満の真教、真宗これなり」と言われているのです。

この親鸞聖人の教えを領解して、貴方の提示してきた『尊号真像銘文』などの文証を篤と読んでごらんなさい。何の矛盾も撞着もありませんから。
親鸞聖人の何処に「若不生者は、極楽に生まれることだけ」という教えがありますか、あれば根拠を教えて下さい。

(株)チューリップ企画  サービス課  山田

2008 3/24(月) 22:30 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画  サービス課  山田様

>> 私がお尋ねしているのは、「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉が有るのか、無いのかです。
>>
>> 有るのか、無いのかだけで結構です。
>> 他の内容は後回しにされても結構ですから、この点だけは明確に御返答ください。
>>
>> 明確なご返答がなければ、無いと返答されたものと判断いたします。

前回、このように質問しましたが、ご返答がありませんでしたので、「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉は存在しない、ということが明確になりました。

後になって、そんなつもりは無かったと言い訳をされないよう、くれぐれもお願いいたします。

>その肝心の「信楽を獲る」ことが、「信楽受持甚以難 難中之難無過斯」(正信偈)と、これ以上難しいことはないと、釈尊も親鸞聖人も蓮如上人も教えられている文証は、すでに挙げてある通りです。そんな「信楽」が、どうして獲られるのでしょうか。「本願文」で示して下さい。

上記の質問は、2月2日に、以下のように返答済みです。

>>「信楽」は「どうして生まれるのか」、「なんの力で生まれるのか」、「いつ生まれるのか」ということは、本願文には明示されておりません。
>> だからこそ、釈迦が本願成就文で説明されたのです。

>当方は幾度も、我々に「信楽が獲られる」のは、「本願文」では「若不生者不取正覚」の不可思議の願力によってであり、「本願成就文」では「名号」の「破闇満願」の働きであり、親鸞聖人は、それを「愚禿鈔」や「浄土和讃」や「高僧和讃」で詳説されていることを繰り返し述べてきたことは、過去のメールを見れば明白です。

貴方の出された根拠は、「若不生者」が「信楽が獲られる」という意味となるという根拠にならないことは、すでに論証してきた通りです。

しかし、今は、双方の主張を確認する作業をしているわけですから、その妥当性を議論するのは、後まわしでしたね。

上記の文章では、どの部分が主張で、どの根拠が対応しているのか判りません。明確にして頂きたく思います。

>無論、弥陀の十八願の「若不生者不取正覚」の約束が「誠だった」と「仏願の生起本末に疑心あることなし」となるのは、「信楽をえた時」ですよ。

質問をすり替えないで頂きたく思います。

これは、「若不生者不取正覚」の約束が果たされたのは、「信楽をえた時」という意味ですか?

異論がなければ、上記の意味だと判断します。

>ところが貴方は今度の返信でも、『「即得往生住不退転」は不体失往生であり、「若不生者」は極楽往生ですから、この2つを同じだと考えるのは誤りです』と仰った。
>それでは「本願成就文」は「弥陀の本願」の開闡ではないのですか。お尋ね致します。

貴方は、「即得往生住不退転」の不体失往生と、「若不生者」は、同じだと考えておられるのですね。

そうでなければ、上記のような異論が起きるはずがありません。
その点、貴方の主張を確認いたします。

あと「開闡」を、どのような意味で使っておられますか?
一般公開しているのですから、現代語で質問して頂くようお願いします。

>弥陀は「極楽浄土に生まれさせる」ために、難中之難無過斯の「信楽に生まれさせる」ことに、「若不生者」と「正覚」を懸けられているのではありませんか。
>その「若不生者不取正覚」の真意を釈尊が開顕されたのが『本願成就文』でしょう。だから親鸞聖人は『本願成就文』を「一実・円満の真教、真宗これなり」と言われているのです。

本願文の「至心信楽欲生我国」の真意を釈尊が開顕されたのが『本願成就文』ではありませんか。

>親鸞聖人の何処に「若不生者は、極楽に生まれることだけ」という教えがありますか、あれば根拠を教えて下さい。

すでに提示してあります文章は、すべて上記の根拠です。

親鸞聖人が「若不生者」を説明された文章は、すべて「極楽往生」の意味で教えられています。それを、不体失往生で教えられた文章は、一つもないことは、貴方も認められた通りです。

極楽に生まれる以外の意味があるのなら、「極楽に生まれるという意味もある」と書かれるはずでしょう。

貴方は、部下にボールペンを買いに行かせるときに、「ボールペンだけ買ってこい」と言われるのですか?

貴方の会社では、「ボールペンを買ってこい」と言われたら、肉まんも買ってよいという意味になるのですか?

親鸞聖人が「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ」と断言されているということは、それ以外の意味ではないのは明白です。

田中一憲

2008 3/25(火) 13:49 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

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田中様

この度、貴方は、
『本願文の「至心信楽欲生我国」の真意を開顕されたのが「本願成就文」ではありませんか』
と言われた。
『本願成就文』で開顕されているのは、本願文の「至心信楽欲生我国」の八字だけのことですか。それとも『本願成就文』漢字四十字、総ての開顕ですか。お尋ね致します。

また貴方は、
『親鸞聖人が、「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ、それ以外に意味はない」と断言されている』と仰っていますが、その文証を示して下さい。
今まで貴方の挙げられた文証は、『親鸞聖人が、「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ、それ以外に意味はない』という根拠にはならないことは、先便で縷々明らかにした通りです。

また返答がないと言われているが、当方は「若不生者不取正覚」の「生」に不体失往生の意味もあることを、「本願文」では「若不生者不取正覚」にあり、「本願成就文」では「名号」の働き「即得往生住不退転」で示し、だから『願成就』には、死後のことは説かれてないことや、その外「愚禿鈔」や「浄土和讃」や「高僧和讃」など、親鸞聖人のお言葉ばかりを提示してきたのに、なにを今更おっしゃるのだと言いたいことです。

だが貴方は、それらの根拠は「若不生者」が「信楽を獲られる」という意味となるという根拠にならないと、論証してきたと仰った。いつ何処で、どのように論証されたのでしょうか。大切なところですから愚鈍な者にも分かるように、もう一度お手間かけたいと思います。論証して下さい。

いまだに貴方は、
『親鸞聖人が、「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ、それ以外に意味はない」と断言されている』と主張されますが、
「真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心をきわむるがゆえに、龍華三会の暁、まさに無上覚位をきわむべし。念仏の衆生は、横超の金剛心をきわむるがゆえに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」(教行信証)
「真に知らされた! いま弥勒菩薩と同格(信楽)になれたのは、弥陀の誓願不思議によってのほかはない。弥勒は五十六億七千万年後でなければ仏のさとりが得られぬのに、私は死ぬと同時に仏のさとりが得られるのだ」と、親鸞聖人は慶喜されていますが、「真に知んぬ」と知らされたのは、「若不生者不取正覚」の不可思議の願力によってではありませんか。これを弥陀の本願の現益というのでしょう。

「今生は、正定聚に生まれさせ」「死んでは、極楽に生まれさせる」のが、「若不生者」の誓いではありませんか。「死んで極楽に往生させる」ことのできるものが、なぜ「今生で往生させる」ことができないのか。「死んで極楽に生まれさせる」ことができるのなら、「今生で生まれさせる」ことができるのが当然でしょう。

「若不生者のちかい」によって、浄土へ生まれる(体失往生)は結果です。信楽に生まれる(不体失往生)という原因なくして、浄土往生という結果は絶対にないのです。
「若不生者不取正覚」の本願力が、「信楽に生まれさせる」ことに懸かっていないという主張は、浄土往生の正因が「信楽」であると言う、親鸞聖人の「信心正因」の教えを否定することになるのです。

チューリップ企画 サービス課 山田

2008 3/29(土) 17:48 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

先便の(『本願成就文』漢字四十字)、を(『本願文』漢字三十
六字)、に訂正してお詫びします。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田

2008 4/2(水) 00:17 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画 サービス課 山田様

>『本願成就文』で開顕されているのは、本願文の「至心信楽欲生我国」の八字だけのことですか。それとも『本願文』漢字三十六字、総ての開顕ですか。お尋ね致します。

もし貴方が、『本願成就文』を、『本願文』漢字三十六字の総てを解説されたものだと理解されているのであれば、その考え方には反対です。

貴方の主張は、『本願文』漢字三十六字、総ての開顕ということで宜しいですか?
異論がなければ、そのように受け取ります。

>また貴方は、
>『親鸞聖人が、「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ、それ以外に意味はない」と断言されている』と仰っていますが、その文証を示して下さい。
>今まで貴方の挙げられた文証は、『親鸞聖人が、「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ、それ以外に意味はない』という根拠にはならないことは、先便で縷々明らかにした通りです。

すみませんが、どこの部分のことでしょうか?
そのような文章は、どこにも見当たりませんでした。

前回のメールで、極楽浄土に生まれる以外の意味がないことは、誰にでも分かるように明らかにしました。それに対する、何の反論もありません。

すでに貴方は、『「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉は存在しない』と認められたのですから、今さら何を仰るのかと思います。

>また返答がないと言われているが、当方は「若不生者不取正覚」の「生」に不体失往生の意味もあることを、「本願文」では「若不生者不取正覚」にあり、「本願成就文」では「名号」の働き「即得往生住不退転」で示し、だから『願成就』には、死後のことは説かれてないことや、その外「愚禿鈔」や「浄土和讃」や「高僧和讃」など、親鸞聖人のお言葉ばかりを提示してきたのに、なにを今更おっしゃるのだと言いたいことです。

私は3月16日に以下のように書きました。

>> 私がお尋ねしているのは、「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉が有るのか、無いのかです。
>>
>> 有るのか、無いのかだけで結構です。
>> 他の内容は後回しにされても結構ですから、この点だけは明確に御返答ください。
>>
>> 明確なご返答がなければ、無いと返答されたものと判断いたします。

これに対して、「有る」とも「無い」とも、まったく返答がありませんでした。
つまり、これは「無い」という返答です。
こんな最近のやりとりを、もう忘れられたのですか?

もし「有る」と言われるなら、なぜ無視されたのですか?
議論するに於いて、相手の質問を無視するという手段は、許されるのですか?
仏教以前の、人間の常識として、どう思われますか?

>だが貴方は、それらの根拠は「若不生者」が「信楽を獲られる」という意味となるという根拠にならないと、論証してきたと仰った。いつ何処で、どのように論証されたのでしょうか。大切なところですから愚鈍な者にも分かるように、もう一度お手間かけたいと思います。論証して下さい。

何回でも論証いたしましょう。

しかし、貴方も同意された通り、今は双方の主張を確認する作業を優先して進めております。

まず、貴方が根拠とされる文章を、今一度、列記してください。前回のメールで、そのようにお願いしましたが、無視されたのは、なぜでしょうか?

貴方の主張が明らかになりましたら、一つ一つ、改めて論証いたしましょう。

>いまだに貴方は、
>『親鸞聖人が、「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ、それ以外に意味はない」と断言されている』と主張されますが、
>「真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心をきわむるがゆえに、龍華三会の暁、まさに無上覚位をきわむべし。念仏の衆生は、横超の金剛心をきわむるがゆえに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」(教行信証)
>「真に知らされた! いま弥勒菩薩と同格(信楽)になれたのは、弥陀の誓願不思議によってのほかはない。弥勒は五十六億七千万年後でなければ仏のさとりが得られぬのに、私は死ぬと同時に仏のさとりが得られるのだ」と、親鸞聖人は慶喜されていますが、「真に知んぬ」と知らされたのは、「若不生者不取正覚」の不可思議の願力によってではありませんか。これを弥陀の本願の現益というのでしょう。

親鸞聖人が「まこと」と知らされた「本願」の内容は、まさに「私が死ぬと同時に仏のさとりが得られるのだ」という内容です。

つまり、これは、「若不生者不取正覚」によって、死ぬと同時に仏のさとりが得られるということであって、私の主張を裏付ける根拠です。

>「今生は、正定聚に生まれさせ」「死んでは、極楽に生まれさせる」のが、「若不生者」の誓いではありませんか。「死んで極楽に往生させる」ことのできるものが、なぜ「今生で往生させる」ことができないのか。「死んで極楽に生まれさせる」ことができるのなら、「今生で生まれさせる」ことができるのが当然でしょう。

>「若不生者のちかい」によって、浄土へ生まれる(体失往生)は結果です。信楽に生まれる(不体失往生)という原因なくして、浄土往生という結果は絶対にないのです。
>「若不生者不取正覚」の本願力が、「信楽に生まれさせる」ことに懸かっていないという主張は、浄土往生の正因が「信楽」であると言う、親鸞聖人の「信心正因」の教えを否定することになるのです。

「信楽に生まれさせる」のは「本願力」によると、1月14日に書いたはずですが、なぜ私の文章を無視されるのですか?

あなたは、本願力を「若不生者不取正覚」の8字に限定して考えておられるようですが、「本願」は「若不生者不取正覚」の8字しか無いのですか?

>> これは、「若不生者不取正覚」の約束が果たされたのは、「信楽をえた時」という意味ですか?
>>
>> 異論がなければ、上記の意味だと判断します。

なお、上記については、異論がありませんでしたので、貴方の主張は、「若不生者不取正覚」の約束が果たされたのは、「信楽をえた時」だと明確になりました。

>> 貴方は、「即得往生住不退転」の不体失往生と、「若不生者」は、同じだと考えておられるのですね。
>>
>> そうでなければ、上記のような異論が起きるはずがありません。
>> その点、貴方の主張を確認いたします。

これも異論がありませんでしたので、貴方の主張では、「即得往生住不退転」の不体失往生と、「若不生者」は、同じだということが明確になりました。

田中

2008 4/2(水) 13:22 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

今回、貴方は、『「本願成就文」を、「本願文」三十六文字の総てを解説されたものという考えには反対です』と仰った。
では『本願成就文』は、『本願文』のどこまでがその解説で、『本願文』のどの部分が解説に入らないのか、明らかに示して下さい。

また貴方は、こんなことも仰った。
『親鸞聖人が「まこと」と知らされた「本願」の内容は、まさに「私が死ぬと同時に仏のさとりが得られるのだ」という内容です』と。

とんでもない。死んでからの当益しか知らない悲しさからでしょうか。この親鸞聖人のお言葉は、そんなことではないでしょう。
『現生で弥勒菩薩と同格(信楽)に生まれさせるという阿弥陀仏のお誓い「まこと」だった』と、今、弥勒菩薩と同格になれた親鸞聖人の大慶喜ではありませんか。

それを貴方のように聞くなんて、「よくきくことも難ければ、信ずることもなを難し」と親鸞聖人の仰った通りだと、いよいよ身に沁みて知らされるではありませんか。

貴方の、2月16日のメールで、『私は、貴方の質問には、「分からない」「知らない」という返答も含めて、必ず何らかの反応しています』と仰っていますのでお聞き致します。

『親鸞聖人が「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ」と断言されている』(3月25日の貴方のメール)と言われる貴方の主張に就いて、未だ当方の質問にお答えになっていない事にお尋ね致します。

(1)『本願成就文』の中に「死後のことが説かれている処」がありますか。
(2)親鸞聖人の主著『教行信証』で、貴方の主張の文証を挙げて下さい。
(3)『本願力』と『若不生者不取正覚という力』の違いは、どこですか。

(株)チューリップ企画  サービス課  山田

2008 4/9(水) 23:04 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

チューリップ企画  サービス課  山田様

いくつか質問を頂いているようですが、お答えする前に、一つだけ質問させていただきます。

>>議論するに於いて、相手の質問を無視するという手段は、許されるのですか?

この質問に対する貴方の返答は、

『無視』

でした。

ほかにも幾つか質問しましたが、その返答も、すべて『無視』でした。

貴方が「議論するに於いて、相手の質問を無視しても良い」と主張されているのは明らかです。

「相手の質問を無視しても良い」と主張される貴方の質問に、なぜ私は返答しなければならないのでしょうか?

田中一憲

2008 4/10(木) 17:16 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

貴方の質問には、総てお答えしてきたはずです。なのに、何一つ質問に答えず無視していると貴方が仰るのは極めて心外です。どんな質問に答えていないのでしょうか、箇条書きにしてお知らせ下さい。重ねてお答え致します。

次に、当方の質問に全く答えられていないものを箇条書きします。
(1)『本願成就文』の中に「死後のことが説
かれている処」がありますか。
(2)親鸞聖人の主著『教行信証』で、貴方
の主張の文証を挙げて下さい。
(3)先便で貴方は、『「本願成就文」を、
「本願文」三十六文字の総てを解説さ
れたものという考えには反対です』
と仰った。
それでは『本願成就文』は、「本願
文」のどこまでの解説で、「本願文」の
どの部分が解説に入らないのか、とお
尋ねしています。

『私は、貴方の質問には、「分からない」「知らない」という返答も含めて、必ず何らかの反応しています』と仰っている貴方です。回答をお待ちしています。

(株)チューリップ企画  サービス課  山田

2008 4/17(木) 22:39 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画  サービス課  山田様

>貴方の質問には、総てお答えしてきたはずです。なのに、何一つ質問に答えず無視していると貴方が仰るのは極めて心外です。どんな質問に答えていないのでしょうか、箇条書きにしてお知らせ下さい。重ねてお答え致します。

本気で仰っておられるのでしょうか?
殆どの質問を無視しておられながら、本当に自覚が無いのでしょうか?

ついでですが、「何一つ」とは書いていません。
「メンタルテストです」という返答を頂いたことは、よく覚えています。

私の書いたことを勝手に書き変えることも、何度も抗議しましたが、それも無視されているようです。

貴方が箇条書きにせよと仰いますから、今まで無視された質問を列記しておきます。

これは、直後の返信において無視されたものを列記しましたので、その後、催促して返答を頂いたものも、一部ですが含まれています。

日付も明記してありますから、詳しい質問内容は、過去のメールで確認して頂ければと思います。

これには、きちんと返答したと言われるなら、返信メールの何行目に書かれているか、明記してください。

重複する質問もありますし、あまりに数が多いですから、1つずつ、お尋ねしたいと思います。

(a)3月16日の質問

>>私がお尋ねしているのは、「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉が有るのか、無いのかです。
>> 有るのか、無いのかだけで結構です。

以下、返答いたします。

>(1)『本願成就文』の中に「死後のことが説
>   かれている処」がありますか。

名号に、死後、極楽に生まれさせる働きがありますので、無関係ではありませんが、『本願成就文』そのものには、死後のことは説かれていないと考えて良いと思います。

>(2)親鸞聖人の主著『教行信証』で、貴方
>   の主張の文証を挙げて下さい。

「私の主張」は、「若不生者」の「生」に「不体失往生」の意味もあると仰っている文証は存在しない、という主張です。

まず、私の主張をよく理解してください。

それ以外のことを、私の主張だと思っておられるなら、上記が私の主張ですので、よくよく覚えておいて頂きたく思います。

私が「若不生者」の「生」を「極楽往生のみ」と言っているのは、親鸞聖人が解釈されている文章が、「極楽浄土」しか見当たらないという意味です。

ですから、教行信証のどこにも、「若不生者」の「生」に「不体失往生」の意味もあると仰っている文証が存在しないということが、私の主張を裏付ける文証です。

>(3)先便で貴方は、『「本願成就文」を、
>   「本願文」三十六文字の総てを解説さ
>   れたものという考えには反対です』
>   と仰った。
>   それでは『本願成就文』は、「本願
>   文」のどこまでの解説で、「本願文」の
>   どの部分が解説に入らないのか、とお
>   尋ねしています。

何文字目から何文字目というような、文字数で尋ねられても、私には分かりません。

本願成就文は、信心をえるとはどういうことかを解説された文章であって、本願文の何から何まで総てを解説したものだという貴方の考えには反対だという意味です。

田中一憲

※以下、過去のメールの引用

(11月21日)
すみませんが、このビデオは素人の集まりで作ったものなのでしょうか?私には、そのように思えませんが。

(11月24日)
1.不体失往生とは、至心信楽を「えた」ことである。
2.「若不生者」の「生」とは、死んで極楽に「生まれる」ということである。
上記2点については、異論が無いということで宜しいでしょうか?

(11月27日)
「若不生者」の「生」とは、死んで極楽に「生まれる」ということに異論は無いということで宜しいでしょうか?

(11月28日)
「前提とされても結構です」と仰るのは、貴方としては認められないという意味にも取れますよ。なぜ「異論はありません」と書けないのですか?

(12月6日)
つまり、貴社の見解は「若不生者の『生』には、生きている時に『信楽をえる』という意味もある」ということでしょうか?

(12月10日)
「死んで極楽に生まれることのみ」ということに異論があるということは、それ以外の解釈があるという御意見ですが、どんな解釈でしょうか?

(12月15日)
私は、貴社の解説書は、御指摘した部分以外は、正しく記述されていると思っておりましたので、先便のメールのように書きましたが、実は何の根拠もなく書かれていたのでしょうか?

(12月15日)
一度も尋ねられた覚えはありませんが、私は「信楽をえた」身ではありません。山田様は、いかがですか?私はお答えしましたから、山田様もお答えください。

(12月20日)
しかし、私は、貴社から「若不生者」の「生」を「死んで極楽に生まれる」という以外の意味に仰っている、という根拠を、いただいておりません。親鸞聖人の御言葉でお示しください。

(12月21日)
>次に、「生まれさせた」とは「摂取不捨したまう時」のこと、と言われている「摂取不捨したもう」とは、「無善造悪の凡夫」の、どこが、どう変わるのか、何も変わらないのでしょうか、お尋ね致します。

これは、「信楽をえた」山田様が、「信楽をえていない」私に教授しなければならない内容と思います。どうぞ御解説ください。

(12月21日)
「若不生者」は、「死んで極楽に生まれるということだけのことである」という記述が無ければ、「死んで極楽に生まれるという以外の解釈がある」という意味になるのですか?

親鸞聖人が「強盗をしてはならない」と書かれていなければ、強盗をしても構わない、という意味になるのですか?

「リンゴ」と書かれたダンボールを見て、「リンゴだけ」と書いていないから、ミカンも入っていると考えるのでしょうか?

(12月21日)
>「若不生者」の「生」を「死んで極楽に生まれる」という以外の意味に仰っている、親鸞聖人のお言葉を、まだいただいておりません、と田中様は言われていますが、既に、提示してはいるのですが、本願を疑っていられる方には届かないのかもしれません。しかし、その内、必ず分かって頂けるものと強く期待しています。

再度、貴社からのメールを読み直しましたが、どこにも見当たりませんでした。申し訳ありませんが、親鸞聖人のお言葉の部分だけを、再度、ご提示ください。

(12月24日)
貴社からのメールは、私の書いたものを全く無視しておられるから、返信する気が失せると、再三、申し上げていますが、わざと無視しておられるのですか?

(12月24日)
親鸞聖人は、信楽をえた人が、極楽浄土に生まれることが「若不生者」の「生」だと教えられています。「若不生者」の「生」に、それ以外の意味があると主張されたいなら、その根拠をお示しください。

(12月24日)
再三再四、「若不生者」の「生」を「極楽浄土に生まれる」以外に解釈された根拠をお尋ねしているのに、無視ではないということは、「根拠が無いので答えられない」ということですね?

(12月26日)
>次にこの度、「生きている時」に「死んで極楽に生まれられる」という未来のことに疑いが晴れるのです、とおっしゃっていますが、まだ死んでもいないのに今、そんなにハッキリと後生未来のことが分かるのでしょうか。

つまり、上記のような疑問を起こされている山田様の心を、自力の心と言うのですね。

(12月26日)
>『「若不生者」の「生」は、「死んで極楽に生まれる」ことだけだと思っている心』も、みな「自力の心」というのですよ。分からなければ最も大事なことですから何度でも答えましょう。

このようなことを親鸞聖人が、どこに教えられているでしょうか?
根拠を示してください。

(12月27日)
>「至心信楽の誓」とは、「雑行雑修自力の心」を切り捨てて、「至心信楽」に生まれさせることができなければ、この弥陀は正覚を取らぬ、という誓です。

根拠の無い、独自の解釈ですね。そんなことを、親鸞聖人がどこに書かれていますか?

(1月8日)
もし、「極楽浄土に生まれる」という意味だけしかない、ということに異論があるのであれば、親鸞聖人の御言葉を示してください。

(1月14日)
「若不生者の念力」という言葉は、親鸞聖人の書かれた言葉でしょうか?貴方の作った言葉でしょうか?

(1月14日)
「死んで極楽に生まれる」ことができるのは、「信楽をえた人だけ」でしょうか?
それとも、「信楽をえていない人も含めて全員」でしょうか?

(1月17日)
>「若不生者の念力」によってのみ「信楽」が「生まれ」、「信楽」が「生まれた人のみ」が「死んで極楽に生まれる」ことが出来る。これが親鸞聖人の教えではありませんか。

そんなことを、親鸞聖人が、どこに書かれていますか?

(1月19日)
あなたは、必然的に極楽に生まれられるから、正覚をかける必要は無いと言いたいのですか?

(1月19日)
弥陀が「信楽に生まれられる」と正覚をかけておられるなら、「必然的に信楽に生まれられる」ことになりますが、必然的に信楽になれるのに、なぜ「獲ること難し」を言われているのですか?

(1月20日)
私が、「弥陀の本願力」と「若不生者の念力」とは違うと、いつ書きましたか?
貴方の作った言葉の意味など、私が知るはずもありません。
ですから、同じとも、違うとも書いた覚えはありませんが、何月何日のメールのことか、お示しください。

(1月22日)
貴方の主張は、「阿弥陀仏が、必ず極楽に生まれさせると誓われなくても、信楽をえた人は、必ず極楽に生まれられる」ということですか?

(1月22日)
『その「高校」にさえ合格出来れば、必然的に好きな「大学」へ行けることがハッキリしているのですから、高校受験に全力を尽くすでしょう。』
上記は、貴方の言葉ですが、何に全力を尽くすのですか?

(1月22日)
「阿弥陀仏が、必ず信楽に生まれさせると誓っておられるから、必然的に信楽になれる」と主張されているのは、貴方ではありませんか?

必然的に信楽になれるのなら、なぜ「難し」と言われるのでしょう。

(1月22日)
つまり、「若不生者」は「信楽に生まれさせた人を、必ず極楽に生まれさせる」という意味だと、認めたということですか?

(1月22日)
私が、「弥陀の本願力」と「若不生者の念力」とは違う、と言ったという根拠を、早く示してください。

(1月25日)
親鸞聖人が、「若不生者」の「生」は「信楽をえる」ことだと言われた文章を示してください。

(1月29日)
貴方は「信楽をえた」と自称されますが、仮にそうだとすれば、信楽を得られるまでは、弥陀の本願を疑っていたはずです。貴方は、信楽を得られるまで、親鸞聖人のお言葉に従っていなかったのでしょうか?

(1月29日)
信楽を得られるまで、親鸞聖人のお言葉に従う必要がないのなら、誰に対して、親鸞聖人は教えを説かれたのでしょうか?

(1月29日)
親鸞聖人の書かれた文章に対して、「間違った文法も、へちまもあるはずない」と仰るのですか?

(1月29日)
貴方が、「若不生者の念力」という単語を知っておられるなら、どの聖教に書かれている言葉か、教えて下さい。

(2月2日)
「若不生者」の「生まれる」の解釈について、「親鸞聖人のお言葉に従う」と書いたのが、いつの間に「親鸞聖人の教えに信順する」に変わったのですか?

(2月2日)
つまり、貴方の意見だと、信楽をえた人以外は、「親鸞聖人のお言葉に従う」と言ってはならないということですね。

(2月8日)
その前に、貴方の立場を確認させて頂きますが、貴方は「親鸞聖人のお言葉に従う」と、「親鸞聖人の教えに信順する」は同じだという主張で宜しいですね?

(2月8日)
>「本願文」に「信楽」に「生まれさせる」のは、「若不生者不取正覚」という力だとハッキリ誓われているではありませんか。
どこにハッキリと誓われていますか?

(2月8日)
私が、いつ『「信楽」に「生まれさせる」のは、「名号」だと思います』と書いたでしょうか?

(2月8日)
この文章を、どのように理解したら、『「信楽」に「生まれさせる」のは、「名号」だと思います』に、なるのでしょうか?

(2月8日)
「本願文での根拠」についても、わざわざ尋ねられる程ですから、根拠をお持ちのはずです。
特に、私は「本願文での根拠」は知りませんので、あるなら教えて頂きたく思います。

(2月15日)
貴方は、「親鸞聖人のお言葉に従う」と「親鸞聖人の教えに信順する」は違うという認識なのですね。

(2月15日)
私の主張を、勝手に変更したことは認められたようですが、何の反省も、謝罪も無いのでしょうか?

(2月15日)
親鸞聖人が、どこに「我々が不体失往生できるのも、現生に不退転の身になれるのも、平生に業事成弁できるのも」、「若不生者という力」であると記述されているでしょうか?

(2月15日)
私が『「信楽」に「生まれさせる」のは「名号」だと思います』と何月何日に書いたか、根拠を挙げて頂きたく思います。

(2月15日)
また、「信楽」は「どうして生まれるのか」「なんの力で生まれるのか」「いつ生まれるのか」、それに就いて「本願文での根拠」はどこか、「願成就文での御文」は何か、貴方の返答を頂いておりません。

なぜ、無視し続けられるのですか?
貴方が作った質問ですよ?
分からないのなら、「分かりません」と答えるべきだと思います。

(3月8日)
このように、相手の主張を摩り替えるやり方にも、何回も抗議してきたと思いますが、改善するお気持ちはないのでしょうか?

(3月8日)
『「若不生者不取正覚」の「生」の意味は、』という主語を、何のために削除されたのでしょうか。この部分があると、何か都合が悪いのでしょうか?

(3月8日)
「若不生者不取正覚」の「生」に、「信楽」に「生まれさせる」という意味があるのですか?

(3月8日)
「若不生者不取正覚」の「生」は、「極楽浄土」であって、「極楽浄土」に生まれさせるためには、信楽をえる必要があるから、結果的に、信楽にも生まれられると仰いたいのですか?

(3月8日)
『「若不生者不取正覚」の「生」は、「信楽をえる」という意味だ』という意味の内容を明言された親鸞聖人のお言葉は…

(3月16日)
私は2月15日に、「若不生者不取正覚という力」と書き換えることを、明確に否定しました(以下に引用)。にも関わらず、何度も「若不生者不取正覚という力」と、こだわるのは何故でしょう。私の文章を、読んでおられないのでしょうか?

(3月16日)
「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていないから、「若不生者」は生きている間だと言われたいのでしょうか?
だとすれば、「若不生者」の「生」には、死後のことは一切含まれないということになりますが、そういう主張ですか?

(3月16日)
「若不生者」は「信楽に生まれさせる」という意味だと、どこにも説かれていないからです。あったらお示し下さい。

(3月16日)
弥陀の十八願の約束が果されるのは、「信楽をえた時」ですか?「極楽往生した時」ですか?

(3月16日)
私がお尋ねしているのは、「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉が有るのか、無いのかです。
有るのか、無いのかだけで結構です。
他の内容は後回しにされても結構ですから、この点だけは明確に御返答ください。

(3月24日)
上記の文章では、どの部分が主張で、どの根拠が対応しているのか判りません。明確にして頂きたく思います。

(3月24日)
これは、「若不生者不取正覚」の約束が果たされたのは、「信楽をえた時」という意味ですか?

(3月24日)
貴方は、「即得往生住不退転」の不体失往生と、「若不生者」は、同じだと考えておられるのですね。

(3月24日)
あと「開闡」を、どのような意味で使っておられますか?

(3月24日)
貴方は、部下にボールペンを買いに行かせるときに、「ボールペンだけ買ってこい」と言われるのですか?
貴方の会社では、「ボールペンを買ってこい」と言われたら、肉まんも買ってよいという意味になるのですか?

(4月2日)
貴方の主張は、『本願文』漢字三十六字、総ての開顕ということで宜しいですか?

(4月2日)
もし「有る」と言われるなら、なぜ無視されたのですか?
議論するに於いて、相手の質問を無視するという手段は、許されるのですか?
仏教以前の、人間の常識として、どう思われますか?

(4月2日)
まず、貴方が根拠とされる文章を、今一度、列記してください。前回のメールで、そのようにお願いしましたが、無視されたのは、なぜでしょうか?

(4月2日)
「信楽に生まれさせる」のは「本願力」によると、1月14日に書いたはずですが、なぜ私の文章を無視されるのですか?

(4月2日)
あなたは、本願力を「若不生者不取正覚」の8字に限定して考えておられるようですが、「本願」は「若不生者不取正覚」の8字しか無いのですか?

2008 4/18(金) 15:48 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

(1)『本願成就文』の中に「死後のことが説
かれている処」がありますか。
〔貴方の返答〕
★『本願成就文』そのものには、死後
のことは説かれていないと考えて良
いと思います。

(2)親鸞聖人の主著『教行信証』で、貴方
の主張の文証を挙げて下さい。
〔貴方の返答〕
★教行信証のどこにも、「若不生者」の
「生」に「不体失往生」の意味もあると
仰っている文証が存在しないという
ことが、私の主張を裏付ける文証で
す。

(3)貴方は、『「本願成就文」を、「本願文」
三十六文字の総てを解説されたものと
いう考えには反対です』と仰った。
それでは『本願成就文』は、「本願文」
のどこまでの解説で、「本願文」のどの
部分が解説に入らないのか、明示して
ください。
〔貴方の返答〕
★何文字目から何文字目というような、
文字数で尋ねられても、私には分か
りません。
「本願成就文」は、「本願文」の何から
何まで総てを解説したものだという
貴方の考えには反対だという意味で
す。

先ず、以上の返答に間違いないか、ご確認下さい。また「勝手に書き変えた」と言われては前進しませんので。

当社で制作発売の「世界の光・親鸞聖人」のアニメは、一人でも多くの方に正しい親鸞聖人の教えを知って頂くためにのみ作られたものです。
正しい親鸞聖人の教えを一人でも多くの方に知って頂きたいと願う点では、
『教行信証のどこにも、「若不生者」の「生」に「不体失往生」の意味もあると仰っている文証が存在しない』
と主張される貴方と有り難く一致します。

故に私たちには、アニメをご覧頂いている方々に、本当の親鸞聖人の教えを明らかに理解して頂かねばならない責任と使命があります。お互い多忙のなかの論戦も、それら一般の方々にも分かって頂けるよう、出来るだけ易しく平易な言葉でと苦慮しているのも、目的はその外にはないからです。又、あってはならないと思っています。あしからず御了承頂きたい。

(株)チューリップ企画  サービス課  山田

2008 4/26(土) 23:46 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画  サービス課  山田様

> 貴方の質問には、総てお答えしてきたはずです。なのに、何一つ質問に答えず無視していると貴方が仰るのは極めて心外です。どんな質問に答えていないのでしょうか、箇条書きにしてお知らせ下さい。重ねてお答え致します。

貴方から、このような要請がありましたので、過去に無視された質問を67問、箇条書きにしてお知らせ致しました。

>>これには、きちんと返答したと言われるなら、返信メールの何行目に書かれているか、明記してください。

このように、お願いしましたが、1つも反論はありませんでしたので、無視したことを認められたものと思います。

貴方は「重ねてお答え致します。」と仰いましたが、これも嘘だったのでしょうか?

全部答えよとは申しておりません。たった一つの質問さえ答えられないのは、どうしてでしょう。

人を馬鹿にするのも、いい加減にして下さい。

田中一憲

2008 4/27(日) 19:32 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

先便で、先ず、「貴方の3つの返答の確認」を求めたのは、先便の貴方の67の質問は、採るに足らない枝葉末節か、すでに明らかに答えたものばかりであったからです。

例えば、(1月14日)
「若不生者の念力」という言葉は、親鸞聖人の書かれた言葉でしょうか? 貴方の作った言葉でしょうか?
などの貴方の問は、まさに枝葉末節です。

(1月14日)
「死んで極楽に生まれる」ことができるのは、「信楽をえた人だけ」でしょうか?
それとも、「信楽をえていない人も含めて全員」でしょうか?
などの問には、直後の(1月15日)『「信楽」が「生まれた人のみ」が「死んで極楽に生まれる」ことが出来る、これが親鸞聖人の教えです』と、すでに答えていることです。よくご覧下さい。

自己の主張を通して、親鸞聖人の教えを明らかにせんとなさる情熱すら感じ、決して馬鹿になどしていません。
ただ、貴方の「三つの返答」を確認しているだけです。
そんなに時間のかからないことと思います。
「ご確認」を頂いてから、どんどん話を進めて行きたいものですから、よろしくお願い致します。
念のため、「確認事項」を再度、挙げておきます。

(1)『本願成就文』の中に「死後のことが説
かれている処」がありますか。
〔貴方の返答〕
★『本願成就文』そのものには、死後
のことは説かれていないと考えて良
いと思います。

(2)親鸞聖人の主著『教行信証』で、貴方
の主張の文証を挙げて下さい。
〔貴方の返答〕
★教行信証のどこにも、「若不生者」の
「生」に「不体失往生」の意味もあると
仰っている文証が存在しないという
ことが、私の主張を裏付ける文証で
す。

(3)貴方は、『「本願成就文」を、「本願文」
三十六文字の総てを解説されたものと
いう考えには反対です』と仰った。
それでは『本願成就文』は、「本願文」
のどこまでの解説で、「本願文」のどの
部分が解説に入らないのか、明示して
ください。
〔貴方の返答〕
★何文字目から何文字目というような、
文字数で尋ねられても、私には分か
りません。
「本願成就文」は、「本願文」の何から
何まで総てを解説したものだという
貴方の考えには反対だという意味で
す。

以上、3点の返答に間違いないか、ご確認下さい。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田

2008 5/7(水) 22:50 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画 サービス課 山田様

>先便で、先ず、「貴方の3つの返答の確認」を求めたのは、先便の貴方の67の質問は、採るに足らない枝葉末節か、すでに明らかに答えたものばかりであったからです。

人が真面目に質問しているのを、「採るに足らない枝葉末節」と仰るのですか。こういう貴方の態度を「人を馬鹿にしている」と申し上げたのです。

>例えば、(1月14日)
>「若不生者の念力」という言葉は、親鸞聖人の書かれた言葉でしょうか? 貴方の作った言葉でしょうか?
>などの貴方の問は、まさに枝葉末節です。

貴方が多用された「若不生者の念力」が、親鸞聖人の言葉かどうか、どうでも良いことですか?

貴方にとって、親鸞聖人が仰ったかどうかということは、枝葉末節のようですね。そんな枝葉末節の言葉の意味を私に度々尋ねられるのは何故でしょうか?

>貴方の質問には、総てお答えしてきたはずです。

この貴方の言葉も嘘だったということになります。枝葉末節に答えていないなら、「総てお答えしてきた」というのは事実に反します。

67の質問のうち、答えて頂いたのは1つだけで、66は無視されたということで宜しいですね。

しかも、今回、答えて頂いた質問は、私が要請した質問とは異なります。

貴方が「重ねてお答え致します。」と仰ったので、私は1問だけに絞ってお願いしましたが、その後、2回とも無視されています。

「重ねてお答え致します。」というのも嘘だったということです。

>自己の主張を通して、親鸞聖人の教えを明らかにせんとなさる情熱すら感じ、決して馬鹿になどしていません。

馬鹿にしていないと仰るなら、嘘を書いたり、私の質問を無視したりしないで頂きたく思います。

>ただ、貴方の「三つの返答」を確認しているだけです。
>そんなに時間のかからないことと思います。
>「ご確認」を頂いてから、どんどん話を進めて行きたいものですから、よろしくお願い致します。

話を進めて行きたいと思われるなら、なぜ私の書いたことを無視されるのですか?

議論にはルールが必要です。貴方と私では、ルールに対する考え方が違うようです。これが統一されないと、議論になりません。

貴方の主張をまとめますと、

・枝葉末節の質問には答えなくてよい。
・枝葉末節の質問かどうかの判断は、自分で勝手に決めてよい。
・枝葉末節の問題だと判断したことを、相手に伝える必要はない。

上記三点で宜しいですね。

田中一憲

2008 5/8(木) 14:57 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

この度の、種々の批難やお尋ねの回答は、貴方の返答の「確認事項」に、総て含まれていることばかりですので、ここでの反論や返答は割愛させて頂きます。

何と言っても先ず、貴方の主張を明確にしておかないと、貴方の主張が親鸞聖人の教えなのか、否かを、明らかにすることはできませんので、貴方の「返答の確認」を、再度、お願いしたのです。

貴方自身が明記なされたことですから、簡単な「確認作業」だとは思いますが、大分「確認」に躊躇なされているようですので、今しばらくお待ちしたいと思います。あくまでも、親鸞聖人の教えを明らかにする以外に目的はありません。

念のため重ねて「確認事項」を提示しておきます。
(1)『本願成就文』の中に「死後のことが説
かれている処」がありますか。
〔貴方の返答〕
★『本願成就文』そのものには、死後
のことは説かれていないと考えて良
いと思います。

(2)親鸞聖人の主著『教行信証』で、貴方
の主張の文証を挙げて下さい。
〔貴方の返答〕
★教行信証のどこにも、「若不生者」の
「生」に「不体失往生」の意味もあると
仰っている文証が存在しないという
ことが、私の主張を裏付ける文証で
す。

(3)貴方は、『「本願成就文」を、「本願文」
三十六文字の総てを解説されたものと
いう考えには反対です』と仰った。
それでは『本願成就文』は、「本願文」
のどこまでの解説で、「本願文」のどの
部分が解説に入らないのか、明示して
ください。
〔貴方の返答〕
★何文字目から何文字目というような、
文字数で尋ねられても、私には分か
りません。
「本願成就文」は、「本願文」の何から
何まで総てを解説したものだという
貴方の考えには反対だという意味で
す。

以上、「貴方の返答」に間違いないか、ご確認下さい。

(株)チューリップ企画  サービス課  山田

2008 5/18(日) 23:30 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画  サービス課  山田様

>この度の、種々の批難やお尋ねの回答は、貴方の返答の「確認事項」に、総て含まれていることばかりですので、ここでの反論や返答は割愛させて頂きます。

何を仰いたいのか、分かりません。

・枝葉末節の質問には答えなくてよい。
・枝葉末節の質問かどうかの判断は、自分で勝手に決めてよい。
・枝葉末節の問題だと判断したことを、相手に伝える必要はない。

上記三点が、貴方の主張だと認められたということですか?

議論のルールに対する認識が異なったままで、議論を続ける意味があるでしょうか?

貴方は、私の質問を散々無視しておられながら、自分の質問だけは答えよと仰るのですか?

>>(a)3月16日の質問
>>
>>私がお尋ねしているのは、「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉が有るのか、無いのかです。
>> 有るのか、無いのかだけで結構です。

「重ねてお答え致します。」と書いておられながら、未だに答えが頂けないのは何故でしょう。貴方が無視された66の質問のうちの、たった1つです。

ついでですから、申し上げておきますが、ビデオの中に「後に浄土宗を開いた程の善恵房証空も…」という台詞がありますが、これは「浄土宗西山派」の間違いですね。「浄土宗」を開いたのは法然上人です。

これは教義とは関係のない、単純ミスと思われますから、次に改訂されることがあれば、その時にでも直されたら良いかと思います。

田中一憲

2008 5/19(月) 16:23 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

「何を仰りたいか分かりません」と、当方の返信内容について仰っていますが、当方の「確認事項」に答えてさえ下されば、次第に分かっていただけることです。

また、当方の「確認事項」に答えていただければ、何が枝葉末節か、否かも、明らかになりますし、『「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉が有るのか、無いのか』の答えも自ずと明らかになって参ります。

実は、それ一つを明らかにするために、何度も貴方の返答の「確認」を求めているのです。貴方の返答の「確認」を重ねてお願いしているのは、そのためなのです。

また「自分の質問だけは答えよと仰るのですか?」と仰っていますが、当方はこの度「質問」しているのではありません。
貴方が答えられたことを「確認」しているだけなのです。

自身が書き記されたことです。そんなに「確認」に困惑する返答だったのでしょうか。

正しい親鸞聖人の教えを開顕せんと憤然と公開に踏み切られた貴方を知る人は、決して想像したくない貴方です。

アニメの「浄土宗云々」につきましては、後日、改めてご挨拶する機会もあると思いますので、「確認」している事項を、もう一度挙げておきます。間違いないか、ご確認下さい。

(1)『本願成就文』の中に「死後のことが説
かれている処」がありますか。
〔貴方の返答〕
★『本願成就文』そのものには、死後
のことは説かれていないと考えて良
いと思います。

(2)親鸞聖人の主著『教行信証』で、貴方
の主張の文証を挙げて下さい。
〔貴方の返答〕
★教行信証のどこにも、「若不生者」の
「生」に「不体失往生」の意味もあると
仰っている文証が存在しないという
ことが、私の主張を裏付ける文証で
す。

(3)貴方は、『「本願成就文」を、「本願文」
三十六文字の総てを解説されたものと
いう考えには反対です』と仰った。
それでは『本願成就文』は、「本願文」
のどこまでの解説で、「本願文」のどの
部分が解説に入らないのか、明示して
ください。
〔貴方の返答〕
★何文字目から何文字目というような、
文字数で尋ねられても、私には分か
りません。
「本願成就文」は、「本願文」の何から
何まで総てを解説したものだという
貴方の考えには反対だという意味で
す。

(株)チューリップ企画  サービス課  山田

2008 5/25(日) 22:09 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画  サービス課  山田様

>また、当方の「確認事項」に答えていただければ、何が枝葉末節か、否かも、明らかになりますし、『「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉が有るのか、無いのか』の答えも自ずと明らかになって参ります。

何を勘違いしておられるのでしょうか?
それとも、わざと無視されているのでしょうか?

私が最も問題にしているのは、議論のルールについてです。

「相手の質問を無視して良い」という貴方の主張を通されるようでは、議論自体が進まないと申し上げているのです。

私の質問に答えることが、そんなに都合の悪いことなのでしょうか?
ここまで返答を拒絶される理由が分かりません。

私は、きちんと返答しているのに、「確認」まで求められる。
貴方は、最初から返答さえしない。

不公平ではありませんか?

残念ですが、貴方には、まともな議論をする意思がないようです。

仕方がありませんから、そろそろ結論を出すことに致しましょう。

そもそも貴社の誤りは、不体失往生の根拠として、「若不生者不取正覚」の八字を使ったことでした。

親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは本願成就文の「即得往生住不退転」の八字です。

ビデオの製作者は、本願成就文も、本願文も同じようなものだから、どちらでも良いだろうと思われたのかも知れません。

もし私が製作者だったら、迷わず「即得往生住不退転」を使ったでしょう。

親鸞聖人が、不体失往生の根拠として、「若不生者」ではなく、「即得往生」を使われた文章を紹介します。

「即得往生」は、信心をうればすなわち往生すという、「すなわち往生す」というは、不退転に住するをいう。「不退転に住す」というは、即ち正定聚の位に定まるなり、「成等正覚」ともいえり、これを「即得往生」というなり。→唯信抄文意

即得往生は、後念即生なり。即時に必定に入る。→愚禿抄

当然ながら、体失不体失往生の根拠とされる、口伝抄に描かれている法然上人のお言葉も「即得往生住不退転」の八字を出されており、「若不生者不取正覚」はどこにもありません。

親鸞聖人は「若不生者不取正覚」を当益として、「即得往生住不退転」を現益として解釈されています。

ですから、どちらでも良い、という訳にはいかないのです。

親鸞聖人が、不体失往生の根拠とされたのは、「即得往生住不退転」であって、「若不生者不取正覚」では無かったのです。

確認事項に答えるまでもなく、貴方の返答から、『「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉は無い』ということが、自ずと明らかになりました。

しかし、仮に、「若不生者不取正覚」に不体失往生の意味があると誤解していたとしても、親鸞聖人の説き方を理解されていれば、迷わず、「即得往生住不退転」の八字をビデオで描いていたでしょう。

親鸞聖人が不体失往生を論じられる時は、常に「即得往生住不退転」を根拠とされたのですから。

この場面で、「即得往生住不退転」ではなく、「若不生者不取正覚」を思いついたというのは、ビデオ製作者の勉強不足であって、貴方の責任では無かったのかも知れません。

貴方は、本願成就文の重要性は理解されているようですので、ビデオ製作者に伝えておいていただきたく思います。

>自身が書き記されたことです。そんなに「確認」に困惑する返答だったのでしょうか。

まったく困惑などしておりませんよ。貴方こそ、私の質問に、なぜ困惑されるのでしょうか?

私が書いたことだと認識されているなら、御自身で確認されたら良いでしょう。4月17日のメールの50行目から、明確に返答してあります。

>アニメの「浄土宗云々」につきましては、後日、改めてご挨拶する機会もあると思います

これについては、間違いを認めて下さったようですね。わざわざ御礼に来ていただくまでもありません。ビデオ製作者の勉強不足もあるようですので、貴方の責任ではないと思います。

田中一憲

2008 5/26(月) 19:11 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

(1)『本願成就文』の中に「死後のこと
が説かれている処」がありますか。
〔貴方の返答〕
★『本願成就文』そのものには、死後
のことは説かれていないと考えて良
いと思います。

(2)親鸞聖人の主著『教行信証』で、貴
方の主張の文証を挙げて下さい。
〔貴方の返答〕
★教行信証のどこにも、「若不生者」
の「生」に「不体失往生」の意味も
あると仰っている文証が存在しない
ということが、私の主張を裏付ける
文証です。

(3)貴方は、『「本願成就文」を、「本願
文」三十六文字の総てを解説された
ものという考えには反対です』と仰っ
た。
それでは『本願成就文』は、「本願
文」のどこまでの解説で、「本願文」
のどの部分が解説に入らないのか、明
示してください。
〔貴方の返答〕
★何文字目から何文字目というような、
文字数で尋ねられても、私には分か
りません。
「本願成就文」は、「本願文」の何か
ら何まで総てを解説したものだとい
う貴方の考えには反対だという意味です。

以上の「貴方の返答」の確認を、三度重ねてお願いして、この度、「確認事項に答えるまでもないこと。私の書いたことだ」と認められましたので、話しを進めたいと思います。

『「横超」とは、すなわち願成就一実・円満の真教・真宗これなり』
(教行信証信巻)
親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願の願意を明らかにするのは、釈迦の説かれた『本願成就文』しかないと、『本願成就文』の教えを、「一実・円満の真教・真宗これなり」と言われています。
貴方は、その『本願成就文』の中に、弥陀の「若不生者不取正覚」のことは説かれていない、と仰る。
ならば『本願成就文』以外の、「一実・円満の真教・真宗」の教えを示して下さい。

貴方の仰るような「若不生者不取正覚」抜きの『本願成就文』ならば、親鸞聖人は「一実・円満の真教・真宗これなり」とは言われなかったでしょう。
親鸞聖人は「教行信証」はじめ、『本願成就文』以外はどこにも説かれていません。
「一実・円満の真教」以上の教えがあれば、ご教示下さい。

『それについて三経の安心あり。その中に「大経」をもって真実とせらる。「大経」の中には第十八の願をもって本とす。十八の願にとりてはまた願成就をもって至極とす』
(改邪鈔)

覚如上人も、『本願』は「本」ではあるが、「至極」は『本願成就文』の教えである、と教えられていますが、その『本願成就文』に「若不生者不取正覚」が説かれていないと、貴方は仰る。そんな『本願成就文』なら「至極」の教えと覚如上人が言われるはずがないでしょう。
「至極」以上の教えを示して下さい。

『かの心行を獲得せんこと、念仏往生の願成就の「信心歓喜乃至一念」等の文をもって依憑とす、このほか未だ聞かず』 (改邪鈔)

また、覚如上人は『本願成就文』の教えのみが真実信心獲得の依憑であると教え、「このほか未だ聞かず」と仰っています。『本願成就文』の教え以外説かれなかった親鸞聖人だから当然でしょうが、貴方はどんな教えを聞いていられる方ですか。

当方は何も、「勘違い」も「無視」もしていません。専ら、貴方の質問に答え、真の親鸞聖人の教えを明らかにするためにのみ努めているのです。ご安心下さい。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田

2008 6/4(水) 23:43 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画 サービス課 山田様

前回のメールで、私は、「親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは『若不生者不取正覚』ではなく、『即得往生住不退転』であった」と結論づけました。

貴方の返信は、私の主張を全面的に支持する内容でしたので、ようやく結論が出たものと思います。

貴方も認められたように、浄土真宗で「至極」と言われる教えは本願成就文しかありません。

それは、本願成就文によらねば、不体失往生の教えを明らかにすることが出来ないからです。

だから親鸞聖人は、不体失往生を語るとき、常に「本願成就文」を根拠とされ、「本願文」を根拠とされたことはありませんでした。

ビデオ製作者の方は、その浄土真宗の常識を知らず、「若不生者不取正覚」を不体失往生の根拠としてしまうという誤りを犯されました。

浄土宗の開祖を間違えられるような方ですから、不勉強だったのかも知れません。ビデオ製作のプロでも、仏教のプロとは限りませんから仕方ないことだと思います。

貴方から、本願成就文の重要性を、そのビデオ担当者に、よくよくお伝え頂きたく思います。

親鸞聖人は、「若不生者不取正覚」を当益として解釈されています。これは貴方も認められたことです。

その、「若不生者不取正覚」に誓われた当益が、本願成就文のどこに説かれているかという御質問ですが、本願成就文に死後のこと(当益)が説かれているかという御質問には、4月17日に既にお答え致しました。

「本願成就文」は「本願文」三十六文字の総てを解説されたものだという貴方の主張に基づけば、本願成就文にも死後のこと(当益)が説かれていなければなりません。

ところが、貴方は、本願成就文は「この世の救い」以外に説かれていないと断言されました。仰っていることが矛盾しています。

いずれにしましても、私のお尋ねしたかったことには結論が出ましたので、この件は終わりにさせて頂きたいと思います。

次に、善慧房証空が、「念仏さえ称えれば、死ねば必ず極楽浄土に連れていく」と説いていた根拠についてもお聞きしたく思いますが、仕事は忙しさを増すばかりで、今までのように長々と議論をするつもりはありません。

根拠があるなら、その根拠をストレートに挙げてください、無いなら無いと答えて下さい。曖昧な返答や、質問を質問で返すような返答の場合は、「無い」という返答だと判断して、それ以上議論するつもりはありませんので、悪しからずご了承ください。

田中一憲

2008 6/5(木) 15:04 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

平成20年4月18日から、三回も「確認」した弊社の「確認事項」で貴方は、こう認められています。

『「本願成就文」を、「本願文」三十六文字の総てを解説されたものという考えには反対です』
『何文字目から何文字目というような、文字数で尋ねられても、私には分かりません。「本願成就文」は、「本願文」の何から何まで総てを解説したものだという貴方の考えには反対だという意味です』

ところが、平成19年12月18日の貴方のメールでは、
「本願を信ずる心は、阿弥陀仏より賜る心ですから、本願文の一部を疑い、残りを信じるということは無い」とも、貴方は仰っています。「本願文」を分断されますか。

また「確認事項」で、貴方は、
『本願成就文』の中に、『本願文』の「若不生者不取正覚」のことは説かれていない、と認められています。

ところが今回、
「親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは『若不生者不取正覚』ではなく、『即得往生住不退転』であった」と、貴方は仰った。
では、「不体失往生」の根拠は「本願文」にはないのですか。親鸞聖人の教えは「本願文」に根拠はないのですか。

そしてまた、『何文字目から何文字目というような、文字数で尋ねられても、私には分かりません。「本願成就文」は、「本願文」の何から何まで総てを解説したものだという貴方の考えには反対だという意味です』
と言われる方が、今どうして、「親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは『若不生者不取正覚』ではなく、『即得往生住不退転』であった」などと言えるのですか。

一体、『本願文』の「若不生者不取正覚」と、『本願成就文』の「即得往生住不退転」とは、どんな関係ですか、違った意味ですか。お尋ね致します。

「貴方の主張を全面的に支持」などとんでもない誤解。「結論が出たから終わりにさせて頂きたい」どころではありません。これからが「若不生者不取正覚」の仏意を開顕しなければならぬ本番です。忙しさは増すばかりでしょうが何かの縁、真実開顕にお互い努めましょう。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田

2008 6/18(水) 10:55 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

平成20年6月5日、貴方の確認されたことに就いてお尋ねしてから、すでに10日以上も経ちました。

(1)「親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは『若不生者不取正覚』ではなく、『即得往生住不退転』であった」
と貴方が仰ったので、
では、不体失往生の根拠は『本願文』にはないのですか。
親鸞聖人の教えの根拠も『本願文』にはないのですか。

(2)『本願文』の「若不生者不取正覚」と、『本願成就文』の「即得往生住不退転」とは、どんな関係ですか。

他にも、お尋ねしたことはありますがまず、本題から明らかにしなければなりません。
今、問われているのは、
「若不生者不取正覚」の「生」は「死んで極楽に生まれることだけ」と説かれたのが親鸞聖人か、否か、ということであることは万々ご承知のはずであります。ご多忙の上、種々ご都合もあるでしょうが返答お願い致します。お待ちしています。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田

2008 6/18(水) 23:03 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画  サービス課  山田様

私は、貴方からの返信を1ヶ月以上お待ちしたことが二度もありましたが、貴方は2週間も待てずに催促でしょうか?

————————————————————
★すり替えですか?

>「親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは『若不生者不取正覚』ではなく、『即得往生住不退転』であった」と、貴方は仰った。
>では、「不体失往生」の根拠は「本願文」にはないのですか。親鸞聖人の教えは「本願文」に根拠はないのですか。

☆不体失往生の根拠とされたのは『若不生者不取正覚』ではない。

これがどうして、

☆親鸞聖人の教えは「本願文」に根拠はない

このように変わってしまうのでしょうか?

————————————————————
★以下は、反論がありませんでしたので、認められたのですね?

>>「本願成就文」は「本願文」三十六文字の総てを解説されたものだという貴方の主張に基づけば、本願成就文にも死後のこと(当益)が説かれていなければなりません。

>> ところが、貴方は、本願成就文は「この世の救い」以外に説かれていないと断言されました。仰っていることが矛盾しています。

————————————————————
★以下は、返答がありませんでしたので、根拠なしと判断します。

>> 次に、善慧房証空が、「念仏さえ称えれば、死ねば必ず極楽浄土に連れていく」と説いていた根拠についてもお聞きしたく思いますが、仕事は忙しさを増すばかりで、今までのように長々と議論をするつもりはありません。

>> 根拠があるなら、その根拠をストレートに挙げてください、無いなら無いと答えて下さい。曖昧な返答や、質問を質問で返すような返答の場合は、「無い」という返答だと判断して、それ以上議論するつもりはありませんので、悪しからずご了承ください。

————————————————————
★以下は本文

>「親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは『若不生者不取正覚』ではなく、『即得往生住不退転』であった」と、貴方は仰った。
>では、「不体失往生」の根拠は「本願文」にはないのですか。親鸞聖人の教えは「本願文」に根拠はないのですか。

これは私が貴方に、何度も、何度も、繰り返し、繰り返し、質問しても、貴方が最後の最後まで返答を断固として拒絶し、無視し続けられた質問です。

親鸞聖人が『即得往生住不退転』を不体失往生の根拠とされたことは、反論の余地がないでしょう。

では、『若不生者不取正覚』が不体失往生の根拠だと仰った、親鸞聖人の文章がありますか?

まず、「ある」「ない」の2字で答えて下さい。
あるならば、その文章も挙げて下さい。

なお、口伝抄では、不体失往生の根拠として「至心信楽」が使われています。本願文で不体失往生に対応する部分を、あえて挙げよと言われるのであれば、この言葉と考えるべきでしょう。

>一体、『本願文』の「若不生者不取正覚」と、『本願成就文』の「即得往生住不退転」とは、どんな関係ですか、違った意味ですか。お尋ね致します。

「即得往生住不退転」で不体失往生した人だけが、「若不生者不取正覚」と体失往生できますから、密接不離な関係がありますが、イコールではありません。

貴方は「若不生者不取正覚」と「即得往生住不退転」はイコールだと仰るのですか?イコールだと仰るなら、イコールだと仰った親鸞聖人の根拠を提示して下さい。

前回のメールでも書きましたように、「若不生者」については結論が出ていますし、「念仏さえ称えれば」についても、根拠がないことが、今回、明白になりました。私の質問には無視の姿勢を貫かれるようですし、これ以上の議論は無意味でしょう。

もし、どうしても議論を続けたいと仰るのであれば、まず上記の2問にお答えになってみて下さい。

それ以外のお返事を頂きました場合は、貴方に議論の続行の意思は無いという意思表明と判断し、これ以上のお返事は致しません。

田中

2008 6/19(木) 17:25 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

この度、貴方は、
『親鸞聖人の不体失往生の根拠を「本願文」で、あえて挙げよと言われるのであれば、口伝抄に、不体失往生の根拠として「至心信楽」が使われています。このお言葉と考えるべきでしょう』
と答えられた。口伝抄の根拠を示して下さい。

既に根拠を提示しましたように親鸞聖人の教えは、「本願成就文」以外にありません。それは貴方も認めて、
「それは、本願成就文によらねば、不体失往生の教えを明らかにすることが出来ないからです」(平成20年6月5日)と言われています。

親鸞聖人の教えは、イコール「本願成就文」の教えであり、「本願成就文」の教えはイコール「本願文」ではありませんか。その「本願文」を解説された「本願成就文」に釈尊が、「若不生者不取正覚」だけを抜かして説かれるはずがありません。

親鸞聖人の不体失往生は「本願文」に説かれている。だが「若不生者不取正覚」ではない、と貴方は仰る。

弊社が今日まで返答を拒絶してきたように貴方は仰るが、遣り取りしたメールの最初から、よくよくお読み頂ければ、当方は始めから、「信楽」(不体失往生)できるのは「若不生者不取正覚」の誓いによるのだと、一貫して主張してきたことが十分お分かり頂けると思います。

「若不生者不取正覚」の「生」は、「死んで極楽に生まれる」ことだけだと言う貴方の主張が、親鸞聖人の教えなのか。
「不体失往生」(信楽)させ、「体失往生」(死んで極楽に生まれ)させると言うお誓いなのか。
この一点、今こそ、どんなに多忙を極めても、明らかにしなければなりません。

そもそも、ことの発端は、実にここに有り、今に至るも明らかにされていない問題ですが、この一点さえ開顕されれば、あとは霧散することばかり。論ずる時間は無駄でしょう。
ご返答をお待ちしています。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田

2008 6/20(金) 22:10 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画 サービス課 山田様

貴方から、『議論の続行の意思は無い』という返信を頂きました。
日本語を読めないはずがありませんから、御自覚があると思います。

貴方に議論続行の意思がないのであれば、返事はしないと申し上げましたが、念のために、貴方から議論を放棄されたことを確認いたします。

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★貴方が返答できなかった2つの質問(6月18日)

☆『若不生者不取正覚』が不体失往生の根拠だと仰った、親鸞聖人の文章がありますか?
まず、「ある」「ない」の2字で答えて下さい。
あるならば、その文章も挙げて下さい。

☆貴方は「若不生者不取正覚」と「即得往生住不退転」はイコールだと仰るのですか?イコールだと仰るなら、イコールだと仰った親鸞聖人の根拠を提示して下さい。

>>もし、どうしても議論を続けたいと仰るのであれば、まず上記の2問にお答えになってみて下さい。

>> それ以外のお返事を頂きました場合は、貴方に議論の続行の意思は無いという意思表明と判断し、これ以上のお返事は致しません。

———————————————————-
★死後の往生を否定したチューリップ企画

☆「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。(3月9日)

☆「本願成就文」の教えはイコール「本願文」(6月19日)

『「本願文」には、死後のことは一切説かれていない』

というのが、チューリップ企画の主張です。

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★一応、答えておきます

>この度、貴方は、
>『親鸞聖人の不体失往生の根拠を「本願文」で、あえて挙げよと言われるのであれば、口伝抄に、不体失往生の根拠として「至心信楽」が使われています。このお言葉と考えるべきでしょう』
>と答えられた。口伝抄の根拠を示して下さい。

ビデオを製作する際に、口伝抄は読まれなかったのでしょうか?

『至心信楽の帰命の一心、他力よりさだまるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識におうて、聞持する平生のきざみに治定するあいだ、この穢体亡失せずといえども、業事成弁すれば、体失せずして往生すと、いわるるか。』

何度も申し上げましたように、不体失往生の根拠は「即得往生住不退転」と答えるのが適当ですが、あえて「本願文」で挙げよと言われた場合、「至心信楽」以外の言葉は見当たりません。

田中一憲

2008 6/21(土) 11:58 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

◆『若不生者不取正覚』が不体失往生の根拠だと仰った、親鸞聖人の文章がありますか?
◆貴方は、「若不生者不取正覚」と「即得往生住不退転」はイコールと仰るのですか?イコールだと仰った親鸞聖人の根拠を提示して下さい。

貴方の、この問いや疑問に答える為に貴重な時間を費やしているのではありませんか。それなのに「議論の続行の意思は無いから返事はしない」とは、一体、どう言うことでしょうか。極めて重大な問題をウヤムヤにしたままでも、そんなに急いで打ち切られたいのならば、簡単な反問に答えてからにして下さい。

■『若不生者不取正覚』が不体失往生の根拠でないと仰った、親鸞聖人の文章がありますか?
■貴方は、「若不生者不取正覚」と「即得往生住不退転」はイコールでないと仰るのですか? イコールでないと仰った親鸞聖人の根拠を提示して下さい。

チューリップ企画が、死後の往生を否定したことは一度もないことは、過去のメールをご覧になれば誰でも明白です。
提示された『口伝抄』の御文は、”あえて”も”考えるべきでしょう”もありません。全く貴方の主張の根拠にはなりません。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田

2008 6/21(土) 20:04 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画 サービス課 山田様

>それなのに「議論の続行の意思は無いから返事はしない」とは、一体、どう言うことでしょうか。

日本語が読めないのでしょうか?
「貴方に議論の続行の意思が無いから返事はしない」と書いたはずですが。

貴方が「議論の続行の意思は無い」と意思表明されたことを、お忘れのようですので、再度、引用いたします。

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★貴方が返答できなかった2つの質問(6月18日)

☆『若不生者不取正覚』が不体失往生の根拠だと仰った、親鸞聖人の文章がありますか?
まず、「ある」「ない」の2字で答えて下さい。
あるならば、その文章も挙げて下さい。

☆貴方は「若不生者不取正覚」と「即得往生住不退転」はイコールだと仰るのですか?イコールだと仰るなら、イコールだと仰った親鸞聖人の根拠を提示して下さい。

>>もし、どうしても議論を続けたいと仰るのであれば、まず上記の2問にお答えになってみて下さい。

>> それ以外のお返事を頂きました場合は、貴方に議論の続行の意思は無いという意思表明と判断し、これ以上のお返事は致しません。

———————————————————-
★チューリップ企画が、死後の往生を否定したことは、過去のメールをご覧になれば誰でも明白です。

☆「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。(3月9日)

☆「本願成就文」の教えはイコール「本願文」(6月19日)

『「本願文」には、死後のことは一切説かれていない』

というのが、チューリップ企画の主張です。

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★結局、チューリップ企画の主張には根拠がありませんでした。

『若不生者不取正覚』が不体失往生の根拠でないと仰った、親鸞聖人の文章があるのかどうか、私は分かりません。

「若不生者不取正覚」と「即得往生住不退転」はイコールでないと仰った親鸞聖人の根拠があるかどうか、私は分かりません。

探せば有るかも知れませんから、御自分で探されたら良いでしょう。
これらの根拠が存在しても、しなくても、

☆『若不生者不取正覚』が不体失往生の根拠だと仰った、親鸞聖人の文章がある

☆「若不生者不取正覚」と「即得往生住不退転」はイコールだと仰った親鸞聖人の根拠がある

ということにはなりませんので、関係ないことです。

これで反問にも答えました。

というわけで、6月18日の質問に答えられなかった貴方が議論を打ち切られたということをお忘れなく。

田中一憲

2008 6/22(日) 17:29 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

この度、貴方は、
▲「若不生者不取正覚」が不体失往生の根拠でないと仰った、親鸞聖人の文章があるのかどうか、私は分かりません。
▲「若不生者不取正覚」と「即得往生住不退転」はイコールでないと仰った親鸞聖人の根拠があるかどうかも、私は分かりません。
と仰った。

こんなことが分かられないようでは、「私は親鸞聖人の教えが全く分かりません」と、貴方自身が認められたことになり、今日までの貴方の主張は、一体何だったのかということになってしまいます。

★貴方が6月4日に、「親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは、『若不生者不取正覚』ではなく『即得往生住不退転』であった」と言われたのも、親鸞聖人の教えを知らずの、断言だったのですか。

★弊社のアニメの内容を、「親鸞聖人の教えを曲げている」と非難されたのも、親鸞聖人の教えの無知からの、貴方の無責任放言だったと認められるのですか。

「議論の続行の意思は無い」と意思表明したなど、とんでもないこと。貴方が勝手に決めたこと、事実無根も甚だしい。これ以上、いい加減なことは言わないで下さい。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田

2008 6/22(日) 21:14 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画 サービス課 山田様

「事実無根」などという事実無根の非難があるようですので、貴方が議論を放棄された証拠を、再度お送りいたします。

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★貴方が返答できなかった2つの質問(6月18日)

☆『若不生者不取正覚』が不体失往生の根拠だと仰った、親鸞聖人の文章がありますか?
まず、「ある」「ない」の2字で答えて下さい。
あるならば、その文章も挙げて下さい。

☆貴方は「若不生者不取正覚」と「即得往生住不退転」はイコールだと仰るのですか?イコールだと仰るなら、イコールだと仰った親鸞聖人の根拠を提示して下さい。

>>もし、どうしても議論を続けたいと仰るのであれば、まず上記の2問にお答えになってみて下さい。

>> それ以外のお返事を頂きました場合は、貴方に議論の続行の意思は無いという意思表明と判断し、これ以上のお返事は致しません。

(こんなことが分かられないようでは、「私は親鸞聖人の教えが全く分かりません」と、貴方自身が認められたことになり、今日までの貴方の主張は、一体何だったのかということになってしまいます。)

———————————————————-
★チューリップ企画が、死後の往生を否定したことは、過去のメールをご覧になれば誰でも明白です。

☆「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。(3月9日)

☆「本願成就文」の教えはイコール「本願文」(6月19日)

『「本願文」には、死後のことは一切説かれていない』

というのが、チューリップ企画の主張です。

田中一憲

2008 6/23(月) 14:17 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

『「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていないから、「本願文」には、死後のことは一切説かれていない』
と言うのがチューリップ企画の主張だと、重ねて非難していられるから、今更とは思いますが、一応簡単に説明しておきましょう。

「真実信心うるひとは
すなわち定聚のかずにいる
不退の位にいりぬれば
かならず滅度にいたらしむ」
(浄土和讃)」

「不退の位にいりぬれば」とは、「若不生者不取正覚」の誓いにより不体失往生(信楽)すれば、「かならず滅度にいたらしむ」とは、必ず、体失往生(死んで極楽に生まれる)させられるのだ、と仰っているお言葉です。

不体失往生した人が、体失往生できないということは絶対にないのだから、不体失往生に阿弥陀如来は、「若不生者」と正覚を懸けられているのだよ、という親鸞聖人の教えです。

『本願成就文』にも『教行信証』にも、死後のことは説かれていなくても、死後の往生の否定でないことは明々白々です。これでも分かられなければ何度でも詳述しましょう。

当方の問いに何の返答もなかったので、再度、お尋ね致します。
★貴方が6月4日に、「親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは、『若不生者不取正覚』ではなく『即得往生住不退転』であった」と言われたのは、親鸞聖人の教えを知らずしての、断言だったのですか。

★弊社のアニメの内容を、「親鸞聖人の教えを曲げている」と非難されたのも、貴方の親鸞聖人の教えの無知からの、無責任放言だったと認められるのですか。

★親鸞聖人の教えの総べてを説く『教行信証』には無いが(4月18日の貴方のメール)、『口伝抄』にあると貴方の主張の根拠として提示された御文、何度読んでも貴方の主張は見あたりません。どだい『教行信証』に無いものが『口伝抄』にあるはずないじゃありませんか。仰っていることが無茶苦茶です。
『口伝抄』に、それでも有ると仰るなら、そのお言葉を示して下さい。

回答がなければ、「議論の続行の意思が無い」のは貴方になります。お待ちしています。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田

2008 6/24(火) 01:03 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画  サービス課  山田様

貴方が6月18日に議論を放棄されましたので、それ以降の質問にお答えする必要は無いと思われます。

———————————————————-
★貴方が返答できなかった2つの質問(6月18日)

☆『若不生者不取正覚』が不体失往生の根拠だと仰った、親鸞聖人の文章がありますか?
まず、「ある」「ない」の2字で答えて下さい。
あるならば、その文章も挙げて下さい。

☆貴方は「若不生者不取正覚」と「即得往生住不退転」はイコールだと仰るのですか?イコールだと仰るなら、イコールだと仰った親鸞聖人の根拠を提示して下さい。

>>もし、どうしても議論を続けたいと仰るのであれば、まず上記の2問にお答えになってみて下さい。

>> それ以外のお返事を頂きました場合は、貴方に議論の続行の意思は無いという意思表明と判断し、これ以上のお返事は致しません。

(こんなことが分かられないようでは、「私は親鸞聖人の教えが全く分かりません」と、貴方自身が認められたことになり、今日までの貴方の主張は、一体何だったのかということになってしまいます。)

———————————————————-
★チューリップ企画が、死後の往生を否定したことは、過去のメールをご覧になれば誰でも明白です。

☆「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。(3月9日)

☆「本願成就文」の教えはイコール「本願文」(6月19日)

『「本願文」には、死後のことは一切説かれていない』

というのが、チューリップ企画の主張です。

———————————————————-
★チューリップ企画が、死後の往生を否定したことは、過去のメールをご覧になれば誰でも明白です。

☆『本願成就文』にも『教行信証』にも、死後のことは説かれていなくても、(6月23日)

『「教行信証」にも、死後のことは一切説かれていない』

というのが、チューリップ企画の主張です。

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★チューリップ企画が、死後の往生を否定したことは、過去のメールをご覧になれば誰でも明白です。

☆不体失往生した人が、体失往生できないということは絶対にないのだから、不体失往生に阿弥陀如来は、「若不生者」と正覚を懸けられているのだよ、という親鸞聖人の教えです。(6月23日)

『阿弥陀如来は、「死後の往生」に正覚を懸けていない』

というのが、チューリップ企画の主張です。

田中一憲

2008 6/24(火) 15:31 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

最近、突如始まった貴方の、「チューリップ企画は死後の往生を否定している」の非難に、みんな驚愕するでしょう。これほど明らかな事実無根の誹謗中傷に何の反論がいるでしょう。

▲貴方は平成20年4月17日のメールで、
「本願成就文」を、「本願文」三十六文字の総てを解説されたものという考えには反対です。何文字目から何文字目というような、文字数で尋ねられても、私には分かりません。
▲また、平成20年6月21日メールで、
「若不生者不取正覚」が不体失往生の根拠でないと仰った、親鸞聖人の文章があるのかどうか、私は分かりません。
▲「若不生者不取正覚」と「即得往生住不退転」はイコールでないと仰った、親鸞聖人の根拠があるかどうかも、私は分かりません。
と仰った。

それでは貴方が6月4日に、これらのことが分からずして、
★『親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは、「若不生者不取正覚」ではなく「即得往生住不退転」であった』などと、どうして言えるのですか。無責任極まりないではありませんか。

★またそれは、親鸞聖人の教えを知らずしての、断言だったのですか。

★弊社のアニメの内容を「親鸞聖人の教えを曲げている」と非難されたのも、貴方の親鸞聖人の教えの無知からの、無責任放言だったと認められるのですか。

★親鸞聖人の教えの総べてを説く『教行信証』には無いが(4月18日の貴方のメール)『口伝抄』にあると、貴方の主張の根拠として提示された御文、何度読んでも貴方の主張は見あたりません。どだい『教行信証』に無いものが『口伝抄』にあるはずないじゃありませんか。仰っていることが無茶苦茶です。
『口伝抄』に、それでも有ると仰るなら、そのお言葉を示して下さい。

これらのお尋ねに今回も、一つとして回答がありませんでしたので、重ねて返答をお願い致します。
チューリップ企画は、『本願成就文』は『本願文』の一部の解説ではなく、総ての解説であり、『本願文』そのものと教えられたのが親鸞聖人と理解していることをお伝えしておきます。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田

2008 6/25(水) 00:47 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画 サービス課 山田様

何度も、「死後の往生」を否定する記述をしながら、覚えておられないようですので、再度、証拠をお送り致します。

———————————————————-
★貴方が返答できなかった2つの質問(6月18日)

☆『若不生者不取正覚』が不体失往生の根拠だと仰った、親鸞聖人の文章がありますか?
まず、「ある」「ない」の2字で答えて下さい。
あるならば、その文章も挙げて下さい。

☆貴方は「若不生者不取正覚」と「即得往生住不退転」はイコールだと仰るのですか?イコールだと仰るなら、イコールだと仰った親鸞聖人の根拠を提示して下さい。

>>もし、どうしても議論を続けたいと仰るのであれば、まず上記の2問にお答えになってみて下さい。

>> それ以外のお返事を頂きました場合は、貴方に議論の続行の意思は無いという意思表明と判断し、これ以上のお返事は致しません。

(こんなことが分かられないようでは、「私は親鸞聖人の教えが全く分かりません」と、貴方自身が認められたことになり、今日までの貴方の主張は、一体何だったのかということになってしまいます。)

———————————————————-
★チューリップ企画が、死後の往生を否定したことは、過去のメールをご覧になれば誰でも明白です。

☆「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。(3月9日)

☆「本願成就文」の教えはイコール「本願文」(6月19日)

☆『本願成就文』は『本願文』の一部の解説ではなく、総ての解説であり、『本願文』そのものと教えられた(6月24日)

☆『願成就』には、死後のことは説かれてない(3月25日)

『「本願文」には、死後のことは一切説かれていない』

というのが、チューリップ企画の主張です。

———————————————————-
★チューリップ企画が、死後の往生を否定したことは、過去のメールをご覧になれば誰でも明白です。

☆『本願成就文』にも『教行信証』にも、死後のことは説かれていなくても、(6月23日)

『「教行信証」にも、死後のことは一切説かれていない』

というのが、チューリップ企画の主張です。

———————————————————-
★チューリップ企画が、死後の往生を否定したことは、過去のメールをご覧になれば誰でも明白です。

☆不体失往生した人が、体失往生できないということは絶対にないのだから、不体失往生に阿弥陀如来は、「若不生者」と正覚を懸けられているのだよ、という親鸞聖人の教えです。(6月23日)

『阿弥陀如来は、「死後の往生」に正覚を懸けていない』

というのが、チューリップ企画の主張です。

———————————————————-
★チューリップ企画が、死後の往生を否定したことは、過去のメールをご覧になれば誰でも明白です。

☆親鸞聖人の教えは、「本願成就文」以外にありません。(6月19日)

☆「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。(3月9日)

☆『願成就』には、死後のことは説かれてない(3月25日)

『親鸞聖人の教えは、死後のことは一切説かれていない』

というのが、チューリップ企画の主張です。

田中一憲

2008 6/25(水) 14:42 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

「親鸞聖人の教えは、死後のことは一切説かれていないというのが、チューリップ企画の主張だ」
短いメールに6回も狂ったように繰り返す今回の異常さ、何が貴方をこんなに血迷わせたのか。無実の非難はするほど、中傷者をキズつけることぐらいはお分かりでしょうに。

それよりも貴方を狂わせた原因を究明し、本来の目的である、正しい親鸞聖人の教えを明らかにしなければなりません。
この度も、当方の問いには一つも回答がありませんでしたので、重ねてお尋ね致します。

★貴方は平成20年4月17日のメールで、
「本願成就文」を、「本願文」三十六文字の総てを解説されたものという考えには反対です。何文字目から何文字目というような、文字数で尋ねられても、私には分かりません。
★また、平成20年6月21日メールで、
「若不生者不取正覚」が不体失往生の根拠でないと仰った、親鸞聖人の文章があるのかどうか、私は分かりません。
★「若不生者不取正覚」と「即得往生住不退転」はイコールでないと仰った、親鸞聖人の根拠があるかどうかも、私は分かりません。
大事なところは、みな「分かりません」でした。

それでは貴方が6月4日に、これらのことが分からずして、
(1)『親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは、「若不生者不取正覚」ではなく「即得往生住不退転」であった』などと、どうして言えたのですか。無責任でありませんか。

(2)またそれは、親鸞聖人の教えを知らずしての、断言だったのですか。

(3)弊社のアニメの内容を「親鸞聖人の教えを曲げている」と非難されたのも、貴方の親鸞聖人の教えの無知からの、無責任放言だったということですか。

(4)『教行信証』には無いが(4月18日の貴方のメール)『口伝抄』にあると、提示された御文、何度読んでも貴方の主張は見あたりません。
どだい『教行信証』に無いものが『口伝抄』にあるはずないじゃありませんか。それでも有ると仰るなら、そのお言葉を示して下さい。

(5)4月25日のメールで貴方は、
『「本願成就文」は「本願文」の総てを解説したものではない』
と断言されています。
それでは、『本願文』の「若不生者不取正覚」は、『本願成就文』に説かれていないのですか。確認しておきます。

◆貴方は、1月20日のメールで、こう言っておられます。
『阿弥陀仏が「信楽に生まれた人を、極楽に生まれさせる」と誓われているから、「信楽にさえ生まれれば、必然的に極楽に生まれられる」のです』
念のため、言っておきましょう。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田

2008 6/26(木) 00:10 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画 サービス課 山田様

>「親鸞聖人の教えは、死後のことは一切説かれていないというのが、チューリップ企画の主張だ」
>短いメールに6回も狂ったように繰り返す今回の異常さ、何が貴方をこんなに血迷わせたのか。

☆親鸞聖人の教えは、「本願成就文」以外にありません。(6月19日)

☆「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。(3月9日)

これが証拠です。

———————————————————-
★貴方が返答できなかった2つの質問(6月18日)

☆『若不生者不取正覚』が不体失往生の根拠だと仰った、親鸞聖人の文章がありますか?
まず、「ある」「ない」の2字で答えて下さい。
あるならば、その文章も挙げて下さい。

☆貴方は「若不生者不取正覚」と「即得往生住不退転」はイコールだと仰るのですか?イコールだと仰るなら、イコールだと仰った親鸞聖人の根拠を提示して下さい。

>>もし、どうしても議論を続けたいと仰るのであれば、まず上記の2問にお答えになってみて下さい。

>> それ以外のお返事を頂きました場合は、貴方に議論の続行の意思は無いという意思表明と判断し、これ以上のお返事は致しません。

(こんなことが分かられないようでは、「私は親鸞聖人の教えが全く分かりません」と、貴方自身が認められたことになり、今日までの貴方の主張は、一体何だったのかということになってしまいます。)

———————————————————-
★「死後の往生」を否定するチューリップ企画

☆「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。(3月9日)

☆「本願成就文」の教えはイコール「本願文」(6月19日)

『「本願文」には、死後のことは一切説かれていない』

というのが、チューリップ企画の主張です。

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★「死後の往生」を否定するチューリップ企画

☆『本願成就文』にも『教行信証』にも、死後のことは説かれていなくても、(6月23日)

『「教行信証」にも、死後のことは一切説かれていない』

というのが、チューリップ企画の主張です。

———————————————————-
★「死後の往生」を否定するチューリップ企画

☆不体失往生した人が、体失往生できないということは絶対にないのだから、不体失往生に阿弥陀如来は、「若不生者」と正覚を懸けられているのだよ、という親鸞聖人の教えです。(6月23日)

『阿弥陀如来は、「死後の往生」に正覚を懸けていない』

というのが、チューリップ企画の主張です。

田中一憲

2008 6/26(木) 14:46 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

「死後の往生を否定するチューリップ企画」良いフレーズを作られましたね。これしかないと、前回に6回、今回は4回、合わせて10回、よほどお気に入りのフレーズのようですから、精々心ゆくまでお楽しみ下さい。

それはお任せですが今回も、当方の問いには一言も反応がありませんでした。聞いているのは、貴方の発言に就いてのことばかりです。重ねてお尋ね致します。
★貴方は平成20年4月17日のメールで、
「本願成就文」を、「本願文」三十六文字の総てを解説されたものという考えには反対です。何文字目から何文字目というような、文字数で尋ねられても、私には分かりません。
★また、平成20年6月21日メールで、
「若不生者不取正覚」が不体失往生の根拠でないと仰った、親鸞聖人の文章があるのかどうか、私は分かりません。
★「若不生者不取正覚」と「即得往生住不退転」はイコールでないと仰った、親鸞聖人の根拠があるかどうかも、私は分かりません。
今、問われている核心は、みな「分かりません」でした。

それでは、これらのことを分からずして貴方は、6月4日に、
(1)『親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは、「若不生者不取正覚」ではなく「即得往生住不退転」であった』などと、どうして言えたのですか。無責任でありませんか。

(2)またそれは、親鸞聖人の教えを知らずしての、断言だったのですか。

(3)弊社のアニメの内容を「親鸞聖人の教えを曲げている」と非難されたのも、貴方の親鸞聖人の教えの無知からの、無責任放言だったと言うことですか。

(4)『教行信証』には無いが(6月18日の貴方のメール)『口伝抄』にあると提示された御文、何度読んでも貴方の主張は見あたりません。それでも有ると仰るなら、そのお言葉を示して下さい。

(5)4月25日のメールで貴方は、
『「本願成就文」は「本願文」の総べてを解説したものではない』
と断言されています。
それでは、『本願文』の「若不生者不取正覚」は、『本願成就文』に説かれていないのですか。確認しておきます。

(6)平成20年6月5日のメールで貴方は、
「それは、本願成就文によらねば、不体失往生の教えを明らかにすることが出来ないからです」
と言われています。
「不体失往生の教え」が「本願文」ではありませんか。「不体失往生の教え」を明らかにするということと、「本願」を明らかにすることとは違うのですか。

◆私は、貴方の質問には、「分からない」「知らない」という返答も含めて、必ず何らかの反応しています(H20.2.15)と、立派な表明をしていられる貴方ではありませんか。
6つの中の一つでも、回答を期待しています。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田

2008 6/26(木) 23:46 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画  サービス課  山田様

貴方は以下の質問に答えることができず、議論続行の意思は無いと意思表明されました。お忘れのようですので、何度でも引用いたします。

———————————————————-
★貴方が返答できなかった2つの質問(6月18日)

☆『若不生者不取正覚』が不体失往生の根拠だと仰った、親鸞聖人の文章がありますか?
まず、「ある」「ない」の2字で答えて下さい。
あるならば、その文章も挙げて下さい。

☆貴方は「若不生者不取正覚」と「即得往生住不退転」はイコールだと仰るのですか?イコールだと仰るなら、イコールだと仰った親鸞聖人の根拠を提示して下さい。

>>もし、どうしても議論を続けたいと仰るのであれば、まず上記の2問にお答えになってみて下さい。

>> それ以外のお返事を頂きました場合は、貴方に議論の続行の意思は無いという意思表明と判断し、これ以上のお返事は致しません。

(こんなことが分かられないようでは、「私は親鸞聖人の教えが全く分かりません」と、貴方自身が認められたことになり、今日までの貴方の主張は、一体何だったのかということになってしまいます。)

———————————————————-
★「死後の往生」を否定するチューリップ企画

☆親鸞聖人の教えは、「本願成就文」以外にありません。(6月19日)

☆「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。(3月9日)

『親鸞聖人の教えは、死後のことは一切説かれていない』

というのが、チューリップ企画の主張です。

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★「死後の往生」を否定するチューリップ企画

☆「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。(3月9日)

☆「本願成就文」の教えはイコール「本願文」(6月19日)

『「本願文」には、死後のことは一切説かれていない』

というのが、チューリップ企画の主張です。

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★「死後の往生」を否定するチューリップ企画

☆『本願成就文』にも『教行信証』にも、死後のことは説かれていなくても、(6月23日)

『「教行信証」にも、死後のことは一切説かれていない』

というのが、チューリップ企画の主張です。

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★「死後の往生」を否定するチューリップ企画

☆不体失往生した人が、体失往生できないということは絶対にないのだから、不体失往生に阿弥陀如来は、「若不生者」と正覚を懸けられているのだよ、という親鸞聖人の教えです。(6月23日)

『阿弥陀如来は、「死後の往生」に正覚を懸けていない』

というのが、チューリップ企画の主張です。

田中一憲

2008 6/27(金) 15:00 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

前回で6つ、「貴方の質問」に答えるために当方が、「貴方の発言を確認」しているのに、「私の2つの質問に答えない」という口実一つを盾にして、今回も一つの返答も頂けませんでしたので、「貴方の質問に答える」ために、重ねて以下「貴方の発言」を確認し、お尋ねしたいと思います。

★貴方は平成20年4月17日のメールで、
「本願成就文」を、「本願文」三十六文字の総てを解説されたものという考えには反対です。何文字目から何文字目というような、文字数で尋ねられても、私には分かりません。
★また、平成20年6月21日メールで、
「若不生者不取正覚」が不体失往生の根拠でないと仰った、親鸞聖人の文章があるのかどうか、私は分かりません。
★「若不生者不取正覚」と「即得往生住不退転」はイコールでないと仰った、親鸞聖人の根拠があるかどうかも、私は分かりません。
今、問われている核心は、みな「分かりません」でした。

それでは、これらのことが分からずして貴方は、6月4日に、
(1)『親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは、「若不生者不取正覚」ではなく「即得往生住不退転」であった』と、どうして言えたのですか。無責任でありませんか。

(2)またそれは、親鸞聖人の教えを知らずしての、断言だったのですか。

(3)弊社のアニメの内容を「親鸞聖人の教えを曲げている」と非難されたのも、貴方の親鸞聖人の教えの無知からの、無責任放言だったということですか。

(4)『教行信証』には無いが(6月18日の貴方のメール)『口伝抄』にあると、提示された御文、何度読んでも貴方の主張は見あたりません。それでも有ると仰るなら、そのお言葉を示して下さい。

(5)4月25日のメールで貴方は、
『「本願成就文」は「本願文」の総てを解説したものではない』
と断言されています。
それでは、『本願文』の「若不生者不取正覚」は、『本願成就文』に説かれていないのですか。確認しておきます。

(6)平成20年6月5日のメールで貴方は、
「それは、本願成就文によらねば、不体失往生の教えを明らかにすることが出来ないからです」
と言われていますが、「不体失往生の教え」が「本願文」ではありませんか。「不体失往生の教え」を明らかにするということと、「本願」を明らかにすることとは違うのですか。

(7)平成19年12月2日のメールで貴方は、
『私が、いつ(「若不生者」の「生」を)、「死後、極楽へ生まれることだけ」と断定しましたでしょうか?』
と言われていますが、断定されたことはありませんか。

(8)平成20年6月10日のメールで貴方は、
『親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは「若不生者不取正覚」ではなく、「即得往生住不退転」であった』
と言われています。
では、親鸞聖人の不体失往生の教えの根拠は、「本願文」には無いのですか。

以上、八問1つでも答えて下さい。お待ちしています。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田

2008 6/28(土) 00:32 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画  サービス課  山田様

今回の貴方のメールは、「自分の力では、2つの質問に答えることが出来ません」という意思表明ですね。

答えが分かっているなら、私の意見を聞かずとも、答えることが出来るはずですから。

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★貴方が返答できなかった2つの質問(6月18日)

☆『若不生者不取正覚』が不体失往生の根拠だと仰った、親鸞聖人の文章がありますか?
まず、「ある」「ない」の2字で答えて下さい。
あるならば、その文章も挙げて下さい。

☆貴方は「若不生者不取正覚」と「即得往生住不退転」はイコールだと仰るのですか?イコールだと仰るなら、イコールだと仰った親鸞聖人の根拠を提示して下さい。

>>もし、どうしても議論を続けたいと仰るのであれば、まず上記の2問にお答えになってみて下さい。

>> それ以外のお返事を頂きました場合は、貴方に議論の続行の意思は無いという意思表明と判断し、これ以上のお返事は致しません。

(こんなことが分かられないようでは、「私は親鸞聖人の教えが全く分かりません」と、貴方自身が認められたことになり、今日までの貴方の主張は、一体何だったのかということになってしまいます。)

———————————————————-
★「死後の往生」を否定するチューリップ企画

☆親鸞聖人の教えは、「本願成就文」以外にありません。(6月19日)

☆「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。(3月9日)

『親鸞聖人の教えは、死後のことは一切説かれていない』

というのが、チューリップ企画の主張です。

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★「死後の往生」を否定するチューリップ企画

☆「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。(3月9日)

☆「本願成就文」の教えはイコール「本願文」(6月19日)

『「本願文」には、死後のことは一切説かれていない』

というのが、チューリップ企画の主張です。

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★「死後の往生」を否定するチューリップ企画

☆『本願成就文』にも『教行信証』にも、死後のことは説かれていなくても、(6月23日)

『「教行信証」にも、死後のことは一切説かれていない』

というのが、チューリップ企画の主張です。

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★「死後の往生」を否定するチューリップ企画

☆不体失往生した人が、体失往生できないということは絶対にないのだから、不体失往生に阿弥陀如来は、「若不生者」と正覚を懸けられているのだよ、という親鸞聖人の教えです。(6月23日)

『阿弥陀如来は、「死後の往生」に正覚を懸けていない』

というのが、チューリップ企画の主張です。

田中一憲

2008 6/28(土) 10:57 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

「貴方の質問」に答えるために当方が、幾たびも「貴方の発言を確認」しているのに、「私の2つの質問に答えない」からという口実一つを盾にして、無責任放言を残したままで幕引きしようとされるので、何度も答えてきたことですが、もう一度「貴方の2問」に答えておきましょう。

★『若不生者不取正覚』が不体失往生の根拠だと仰った、親鸞聖人の文章がありますか。
勿論、ある。
親鸞聖人のお言葉は、
『信受本願 前念命終(即入正定聚之数)
即得往生 後念即生(即時入必定、又名必定菩薩也)
本願を信受するは、前念命終なり。(即ち正定聚の数に入る。)
即得往生は、後念即生なり。(即時に必定に入る。又必定の菩薩と名くる也)』

★貴方は「若不生者不取正覚」と「即得往生住不退転」はイコールだと仰るのですか。
イコールでなければ「一実・円満の真教」と言われるはずがないじゃありませんか。
親鸞聖人のお言葉は、
『信受本願 前念命終(即入正定聚之数)
即得往生 後念即生(即時入必定、又名必定菩薩也)
本願を信受するは、前念命終なり。(即ち正定聚の数に入る。)
即得往生は、後念即生なり。(即時に必定に入る。又必定の菩薩と名くる也)』

理解できないところがなければ、貴方の口実はなくなります。以下の問いに答えて下さい。

★貴方は平成20年4月17日のメールで、
「本願成就文」を、「本願文」三十六文字の総てを解説されたものという考えには反対です。何文字目から何文字目というような、文字数で尋ねられても、私には分かりません。
★また、平成20年6月21日メールで、
「若不生者不取正覚」が不体失往生の根拠でないと仰った、親鸞聖人の文章があるのかどうか、私は分かりません。
★「若不生者不取正覚」と「即得往生住不退転」はイコールでないと仰った、親鸞聖人の根拠があるかどうかも、私は分かりません。
今、問われている核心は、みな「分かりません」でした。

それでは、これらのことが分からずして貴方は、6月4日に、
(1)『親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは、「若不生者不取正覚」ではなく「即得往生住不退転」であった』と、どうして言えたのですか。無責任でありませんか。

(2)またそれは、親鸞聖人の教えを知らずしての、断言だったのですか。

(3)弊社のアニメの内容を「親鸞聖人の教えを曲げている」と非難されたのも、貴方の親鸞聖人の教えの無知からの、無責任放言だったということですか。

(4)『教行信証』には無いが(6月18日の貴方のメール)『口伝抄』にあると、提示された御文、何度読んでも貴方の主張は見あたりません。それでも有ると仰るなら、そのお言葉を示して下さい。

(5)4月25日のメールで貴方は、
『「本願成就文」は「本願文」の総てを解説したものではない』
と断言されています。
それでは、『本願文』の「若不生者不取正覚」は、『本願成就文』に説かれていないのですか。確認しておきます。

(6)平成20年6月5日のメールで貴方は、
「それは、本願成就文によらねば、不体失往生の教えを明らかにすることが出来ないからです」
と言われていますが、「不体失往生の教え」が「本願文」ではありませんか。「不体失往生の教え」を明らかにするということと、「本願」を明らかにすることとは違うのですか。

(7)平成19年12月2日のメールで貴方は、
『私が、いつ(「若不生者」の「生」を)、「死後、極楽へ生まれることだけ」と断定しましたでしょうか?』
と言われていますが、断定されたことはありませんか。

(8)平成20年6月10日のメールで貴方は、
『親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは「若不生者不取正覚」ではなく、「即得往生住不退転」であった』
と言われています。
では、親鸞聖人の不体失往生の教えの根拠は、「本願文」には無いのですか。

(9)平成20年2月2日の貴方のメールに、『「信楽」は「どうして生まれるのか」、「なんの力で生まれるのか」、本願文には明示されておりません』
と貴方は言われています。本当に、それらのことは説かれていないのですか。

以上、9つの中で1問でも答えて下さい。お待ちしています。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田

2008 6/28(土) 20:40 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画 サービス課 山田様

★ 貴方が「若不生者」の「生」を、「信楽に生まれる」と解釈されたことに、親鸞聖人の根拠が有るのか。無いのか。

これ1つを、繰り返し、繰り返し、質問してきました。今回、この質問に対して、ようやく以下の返答を頂きました。

>『信受本願 前念命終(即入正定聚之数)
>即得往生 後念即生(即時入必定、又名必定菩薩也)

この返答で、貴方の主張には、結局、根拠が無いことが、明白になりました。

———————————————————-

★「本願を信受する」とは、「本願に疑いが晴れる」ということです。

尊号真像銘文には、以下のように記述されています。

『信楽というは、如来の本願、真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば、信楽ともうすなり。この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。』

つまり、「本願を信受する」=「至心信楽をえる」ということです。

貴方の根拠は、「至心信楽をえる」と同時に「即得往生」するということが書かれているだけで、「若不生者」については触れられていません。

さらに、尊号真像銘文は、以下のように続きます。

『「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。』

至心信楽をえた人、イコール「即得往生」した人が、死んで極楽浄土に生まれるのが、「若不生者」の「生」だと断定されています。

当然、「即得往生」=「若不生者」は成り立ちません。

貴方が主張するように、「即得往生」=「若不生者」であるならば、「若不生者」は「生きている間のみ」ということになり、上記の親鸞聖人の記述は間違いということになります。

つまり、貴方の提示された根拠では、「若不生者」の「生」を、「信楽に生まれる」と解釈することは出来ません。

———————————————————-

>「貴方の質問に答える」ために、重ねて以下「貴方の発言」を確認し、お尋ねしたいと思います。

該当の質問に答えなくても、私からの質問に答えることが出来ましたね。
何のための確認だったのでしょうか。
いずれにしましても、これで返答する必要が無くなりました。

———————————————————-

とりあえず、貴社がビデオを製作した際の、聖教の根拠については、明確な返答を頂きました。

一応、私の目的は達せられた訳です。ありがとうございました。

なぜ、最初の返信で、このように明示して頂けなかったのか疑問ですが、今更そのようなことを言っても仕方の無いことですから、問題にはしません。

貴社の提示された根拠について、私の意見は、上記のように述べましたので、あとは読まれた皆さんが判断されることでしょう。

ここまで読んで下さった読者の皆さんにも御礼申し上げます。

田中一憲

2008 6/29(日) 21:42 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

『「若不生者不取正覚」が不体失往生の根拠だと仰った、親鸞聖人の文章がありますか』
たび重ねての貴方の問いに、
『本願を信受するは、前念命終なり。即得往生は、後念即生なり』(愚禿抄)
の私の回答に、「結局、根拠が無いことが明白になった」と貴方は仰った。

理由は、
『「至心信楽をえる」と同時に「即得往生」するということが書かれているだけで、「若不生者」については触れられていません』と言うものでした。
『「至心信楽をえる」と同時に「即得往生」する』は自明のこと。今、問われているのは、そんなことではないのです。
『「前念命終」させ「後念即生」させる、「信楽をえさせ」「即得往生」「不体失往生させる」のは、何方の、どんなお力か」「若不生者不取正覚」との関係は、有るのか無いのか』が問われているのです。幕引きを急いで大切な問題をウヤムヤにしてはなりません。

貴方は、平成20年2月2日のメールで、『「信楽」は「どうして生まれるのか」、「なんの力で生まれるのか」、「本願文」には明示されておりません』
と言われています。
「本願文に明示されていない」と言うことは、弥陀が説かれていないと言うことですか。弥陀が説かれてないことを、釈迦は説かれたのですか。

「本願の疑い」を晴らす力は、なんですか。貴方は「本願」には無いと言われる。誓われていながら「誓っていること」を「果たす力が説かれていない」とすれば、そんな「本願」を、なぜ「無上殊勝の願」とか「攝取不捨の真言」とか「超世希有の正法」と言われるのでしょうか。

ヤレヤレ「これで貴方の質問に答える必要がなくなった」と仰っていますが、無責任な放言を撒き散らし「答えにならない」ことを言い放って、「私の目的は達せられたから、ありがとうございました」とはいきません。貴方の発言に就いてまだ正式な回答を頂いていません。以下、あらためてお尋ね致します。

★貴方は平成20年4月17日のメールで、
「本願成就文」を、「本願文」三十六文字の総てを解説されたものという考えには反対です。何文字目から何文字目というような、文字数で尋ねられても、私には分かりません。
★また、平成20年6月21日メールで、
「若不生者不取正覚」が不体失往生の根拠でないと仰った、親鸞聖人の文章があるのかどうか、私は分かりません。
★「若不生者不取正覚」と「即得往生住不退転」はイコールでないと仰った、親鸞聖人の根拠があるかどうかも、私は分かりません。
今、問われている核心は、みな「分かりません」でした。

それでは、これらのことが分からずして貴方は、6月4日に、
(1)『親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは、「若不生者不取正覚」ではなく「即得往生住不退転」であった』と、どうして言えたのですか。無責任でありませんか。

(2)またそれは、親鸞聖人の教えを知らずしての、断言だったのですか。

(3)弊社のアニメの内容を「親鸞聖人の教えを曲げている」と非難されたのも、貴方の親鸞聖人の教えの無知からの、無責任放言だったということですか。

(4)『教行信証』には無いが(4月18日の貴方のメール)『口伝抄』にあると、提示された御文、何度読んでも貴方の主張は見あたりません。それでも有ると仰るなら、そのお言葉を示して下さい。

(5)4月25日のメールで貴方は、
『「本願成就文」は「本願文」の総てを解説したものではない』
と断言されています。
それでは、『本願文』の「若不生者不取正覚」は、『本願成就文』に説かれていないのですか。確認しておきます。

(6)平成20年6月5日のメールで貴方は、
「それは、本願成就文によらねば、不体失往生の教えを明らかにすることが出来ないからです」
と言われていますが、「不体失往生の教え」が「本願文」ではありませんか。「不体失往生の教え」を明らかにするということと、「本願」を明らかにすることとは違うのですか。

(7)平成19年12月2日のメールで貴方は、
『私が、いつ(「若不生者」の「生」を)、「死後、極楽へ生まれることだけ」と断定しましたでしょうか?』
と言われていますが、断定されたことはありませんか。

(8)平成20年6月10日のメールで貴方は、
『親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは「若不生者不取正覚」ではなく、「即得往生住不退転」であった』
と言われています。
では、親鸞聖人の不体失往生の教えの根拠は、「本願文」には無いのですか。

明快な回答、お待ちしています。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田

2008 07/01(火) 23:19 田中氏より㈱チューリップ企画へ

メールの記録

(株)チューリップ企画 サービス課 山田様

失礼ですが、前回のメールを本当に読まれたのでしょうか?

貴社のビデオについての私の質問に、貴方はようやくお答えになられました。

貴方の提示された根拠について、私の意見も、述べさせて頂きました。

あとは、読まれた方が、判断されたら良いことです。

貴方が作成されたサイトにも、『どちらの主張が親鸞聖人の教えに適っているかは、読まれた皆さんの御判断にお任せしたいと思います。』と書かれているではありませんか。

それで、何か不都合があるのでしょうか?

まだ、書き足りないことがあるのですか?

60通以上もメールを書かれながら、まだ書き足りないことがあるとすれば、貴方の文章力に問題があります。

★今回いただいたメールでも、貴方の提示された根拠が「若不生者」を解説されたものではない、とお認めになられましたね。

つまり、根拠は無かったと、お認めになったということです。

『「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。』

貴方は、「至心信楽をえる」と同時に「即得往生」することも、お認めになられました。

親鸞聖人は、上記のように、至心信楽をえた人(即得往生した人)が、死んで極楽往生するのが「若不生者」だと断定されています。

★つまり、「即得往生」と「若不生者」はイコールでないことも、お認めになったということです。

★「本願文」は、「本願成就文」とイコールであり、死後のことは一切説かれていないという貴方の主張が、いかに間違っているか、この親鸞聖人の記述からも明白です。

信楽をえさせるのは、何方のどんなお力かとお尋ねですが、阿弥陀仏の調熟・破闇光明の働きです。

この程度のことも、ご存知ないのでしょうか?

本題と関係ないことを、質問しないで頂きたく思います。

貴方に無視された質問が、数十ありましたが、それは結構です。

前にも書きましたが、これ以上お付き合いしている時間がありませんので、申し訳ありませんが、今後、私へのメール送信を、一切お断りします。

このメールに対する返信も、要りません。

★良識ある一企業として、メールを拒否している人間に、メールを送りつけるような、違法かつ非常識なことをされぬよう、くれぐれも、お願い申し上げます。

なお、過去のやりとりにおいて、一部、貴社に対して非礼な表現があったかも知れませんが、その点につきましては、最後の最後になりましたが、お詫び申し上げたいと思います。

田中一憲

2008 7/2(水) 15:14 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

メールの記録

田中様

平成20年7月1日の貴方の返信について、賛同や反問、反論や希望など、以下、箇条書きに致します。
☆「読まれた方の判断で良い」
(賛同します)。
☆「まだ、書きたいことがあるのか」
(書きたいことだらけです)。
☆『貴方の提示された根拠が「若不生者」を解説したものではないと認められましたね』
(とんでもない貴方の誤解です。認めていません。ここに〝こう書いているではないか〟と、あれば指摘して下さい)。
☆『「至心信楽をえる」と同時に「即得往生」することも、お認めになられましたね』
(当方の主張ですから、勿論のことです)。
☆『親鸞聖人は、上記のように、至心信楽をえた人(即得往生した人)が、死んで極楽往生するのが「若不生者」だと断定されている』
(それだけと「断定」されてはいません)。
☆「信楽をえさせるのは、阿弥陀仏の調熟・破闇の光明の働きです」
(その根拠は、『本願文』の何処ですか)。
☆「本題と関係ないことを、質問しないで頂きたい」
(本題が『若不生者不取正覚』ではありませんか。『若不生者』と関係のないことは、一切質問していません。しかも貴方の発言についての質問ばかりです。貴方はメールを拒否できる立場ではないのです)。
☆「貴方に無視された質問が、数十ありましたが、それは結構です」
(そんなご遠慮は全く無用。答えなかったら、どんどん重ねて質問、追及して下さい。大いに歓迎です)。
☆「貴社に対して非礼な表現があったかも知れませんが……」
(非礼な表現はお互いさま、サラサラお気になさらないで下さい。それよりも貴方が、「ご自分の発言に就いての質問に答えない非礼」のほうが、一番の不愉快です)。
いまからでも結構ですから、予てからお尋ねしている、以下の8つの問いにキチンと答えて下さい。

★貴方は平成20年4月17日のメールで、
「本願成就文」を、「本願文」三十六文字の総てを解説されたものという考えには反対です。何文字目から何文字目というような、文字数で尋ねられても、私には分かりません。
★また、平成20年6月21日メールで、
「若不生者不取正覚」が不体失往生の根拠でないと仰った、親鸞聖人の文章があるのかどうか、私は分かりません。
★「若不生者不取正覚」と「即得往生住不退転」はイコールでないと仰った、親鸞聖人の根拠があるかどうかも、私は分かりません。
今、問われている核心は、みな「分かりません」でした。

それでは、これらのことが分からずして貴方は、6月4日に、
(1)『親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは、「若不生者不取正覚」ではなく「即得往生住不退転」であった』と、どうして言えたのですか。
(2)またそれは、親鸞聖人の教えを知らずしての、断言だったのですか。
(3)弊社のアニメの内容を「親鸞聖人の教えを曲げている」と非難されたのも、貴方の親鸞聖人の教えの無知からの、無責任放言だったということですか。
(4)『教行信証』には無いが(4月18日の貴方のメール)『口伝抄』にあると、提示された御文、何度読んでも貴方の主張は見あたりません。それでも有ると仰るなら、そのお言葉を示して下さい。
(5)4月25日のメールで貴方は、
『「本願成就文」は「本願文」の総てを解説したものではない』
と断言されています。
それでは、『本願文』の「若不生者不取正覚」は、『本願成就文』に説かれていないのですか。確認しておきます。
(6)平成20年6月5日のメールで貴方は、
「それは、本願成就文によらねば、不体失往生の教えを明らかにすることが出来ないからです」
と言われていますが、「不体失往生の教え」が「本願文」ではありませんか。「不体失往生の教え」を明らかにするということと、「本願」を明らかにすることとは違うのですか。
(7)平成19年12月2日のメールで貴方は、
『私が、いつ(「若不生者」の「生」を)、「死後、極楽へ生まれることだけ」と断定しましたでしょうか?』
と言われていますが、断定されたことはありませんか。
(8)平成20年6月10日のメールで貴方は、
『親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは「若不生者不取正覚」ではなく、「即得往生住不退転」であった』
と言われています。
では、親鸞聖人の不体失往生の教えの根拠は、「本願文」には無いのですか。

以上、八問、回答をお待ちしています。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田

2008 7/5(土) 20:01 ㈱チューリップ企画より

メールの記録

読者の皆さんへ

ご覧の通り、自身が記されたことへの問いにも答え切れず、突如、田中氏は受信を拒否されました。よって過去のような論戦継続は不可能となりました。誠に残念至極です。

だが、弥陀の本願の「若不生者不取正覚」は、田中氏のいう「死後のことだけなのか」、チューリップ企画のいうように、「この世は信楽に生まれさせ、死後、真実報土に生まれさせる」という誓いなのか。
明らかにしなければなりません。
正しい親鸞聖人の教えが知りたいと熱望されている方々のために、継続して当ブログで、田中氏の主張を、8月1日から徹底検証したいと思っています。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田

【第1回】論戦の発端

【徹底検証】

平成19年8月18日。
田中一憲と名乗る方から、以下のような問いかけを受けた。

【先日、知人が購入した貴社の仏教ビデオ「世界の光・親鸞聖人」第2巻を拝見させて頂きました。そのシーンの中に、以下のやりとりがあります。
(善恵房)「親鸞殿、お経のどこに、この世で救われるという根拠がありましょうか?」
(親鸞聖人)「勿論、ございます。阿弥陀如来の本願に、『若不生者 不取正覚』とあります。必ず生まれさせると誓っておられるではありませんか!」

不勉強のためか、この若不生者の『生』を、この世で生まれると解釈している学説を聞いたことがございません。どのような根拠に基づいて、このような解釈をされたのか、お示し頂きたく思います。
こと仏法のことでありますので、内容によっては、ご返信を公開させて頂くことも考えておりますので】

「こと仏法のこと、内容によっては、ご返信を公開させて頂くことも考えております」と披瀝されていることからも、強く親鸞聖人の教えを明らかにしたいという真剣さが窺えた。
よって、このメールを発端として、どちらが正しい親鸞聖人の教えか、論戦が始まったのである。期間は約10カ月、相互に交わすメールは120通余りに及ぶ。

問題になったアニメのシーンは、今日、「体失・不体失往生の諍論」と言われているもので、阿弥陀如来の救いに就いて、「体失往生である」と主張した善恵房証空と、「不体失往生である」と主張された親鸞聖人との論争を描いた場面である。
「体失」とは“肉体を失って”とあるから「死後」のこと。「不体失」とは“肉体を失わずして”とあるから「生きている時」のことをいう。
「往生」とは、「阿弥陀如来の救い」をいうから、「体失・不体失往生の諍論」とは、
「弥陀の救いは、死後(体失往生)である」か、「生きている時(不体失往生)である」か、という仏法上の大論争だった。

弥陀の救いは“死んでから”だ、と主張する善恵房に対して、親鸞聖人は“生きている時”と主張され、その根拠として聖人は、弥陀の本願に誓われている「若不生者不取正覚」というお言葉を出された。

ここで、あまり仏教に馴染みのない方のために、この度、問題になった阿弥陀如来の本願の「若不生者不取正覚」とは何か、に就いて少し説明しておかなければならないであろう。
「若不生者不取正覚」とは、阿弥陀仏の本願のお言葉で、「若し生まれずは、正覚を取らじ」と読む。「正覚」とは「仏覚(仏のさとり)」のこ と、「仏のさとり」は仏の「命」。「若し生まれさせることができなければ、命を捨てる」という、まさに、この八字は阿弥陀仏が命を懸けて誓われている極め て重要なお言葉であるから、親鸞聖人は「弥陀の本願」を「若不生者の誓」と仰っている。

では、「必ず、生まれさせる」と弥陀が命を懸けられる「若不生者」の「生」とは、何を、いつ、どのように、「生まれさせる」ということなのか、大きな問題となる。

長期に亘る多くのメール交換によって、双方の「若不生者」の「生」に就いての見解の相異点が明白になった。
田中氏は「死んで、極楽に生まれさせることだけ」だと主張し、チューリップ企画は、「この世、信楽(絶対の幸せ)に生まれさせ、死後、極楽に生まれさせる」という誓いであると、主張する。故に弊社のアニメには、そのように描かれているのである。

共に明らかにせんとしたのは唯一つ、偏に、弥陀の本願の「若不生者不取正覚」の正意であり、親鸞聖人の真の教えに外ならない。
お粗末ながら、平成の「体失・不体失往生の論戦」と言えるかもしれない。

【第2回】なぜ見解が分かれたか

【徹底検証】

以上、最も大切な阿弥陀如来の本願の「若不生者」の「生」を、田中氏は、
「死んで極楽に生まれることだけ」
という主張に対して、チューリップ企画は
「この世は信楽に生まれ、死後、極楽に生まれること」
と主張、双方の理解の違いを明確にし、この度の論戦発生の所以を述べた。

ここで素朴な疑問が湧いて来る人もあろう。唯一真実の親鸞聖人の教えに就いて、然も、最も重要な「弥陀の本願」のことに、どうして見解がこのように異なったのか、ということである。その疑問は、本当の親鸞聖人の教えはどうなのか、を聞いてみるより外ないだろう。

親鸞聖人の教えといっても釈迦の説かれた仏教以外にはない。「更に親鸞、珍しき法をも弘めず、如来の教法を我も信じ、人にも教え聞かしむるばかりなり」
「親鸞は誰も説いたことのない珍しい教えを伝えているのではない。如来の教法(仏教)を、親鸞も信じ皆さんにもお伝えしているだけである」
と仰っていることでも明かである。

では「如来の教法」=「仏教」とは何か。
親鸞聖人は『教行信証』というお聖教に、
「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」
と教えていられる。これは、
「釈迦如来が、この世に現れて仏教を説かれた目的は、阿弥陀如来の本願、唯一つであった」
という聖人の断言である。そして親鸞聖人も生涯、弥陀の本願以外、教えられなかったのである。

親鸞聖人の主著『教行信証』には、こう記されている。
『「横超」(弥陀の本願)とは、すなわち願成就一実・円満の真教、真宗これなり』
親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願を正しく明らかに知るには、釈迦が、弥陀の本願の願意を徹底して解説された『本願成就文』の外にはないと、『成就文』の教えを「一実・円満の真教、真宗これなり」(大宇宙唯一の、完全無欠の教えであり、真実の教である)と仰っている。
だから『成就文』の教え以外に、親鸞聖人の教えはないのである。

もし、『成就文』の教えが『本願文』三十六文字の「至心信楽欲生我国」だけの解説だとか、「若不生者不取正覚」抜きの解説だとか、『本願文』の一部だけの解説ならば、『成就文』の教えを、「一実・円満の真教、真宗これなり」とは、決して言われなかったにちがいない。阿弥陀仏が、『本願文』三十六文字に誓われていることの総べてを、釈迦が『成就文』四十字で明らかにされているからこそ、「一実・円満の真教、真宗これなり」と聖人は喝破されたのである。

親鸞聖人の『教行信証』はじめ多くのお聖教に、『成就文』以外の教えは、どこにも説かれていないのは、「一実・円満の真教」以上の教えはないからである。

【第3回】覚如・蓮如上人のお言葉で

【徹底検証】

前回で、釈迦が『弥陀の本願』の真意を開顕された『成就文』の外に、親鸞聖人の教えの無いことを聖人のお言葉で明らかにした。
続いて親鸞聖人の曾孫・覚如上人、蓮如上人のお言葉で、『成就文』の外に親鸞聖人の教えの無いことを確認しておこう。

覚如上人は『改邪鈔』に、こう述べていられる。
「それについて三経の安心あり。その中に『大経』をもって真実とせらる。『大経』の中には第十八の願をもって本とす。十八の願にとりてはまた願成就をもって至極とす」

阿弥陀仏の救いは、浄土三部経(『観無量壽経』『阿弥陀経』『大無量寿経』)ともに説かれてはいるが、中でも親鸞聖人は『大無量寿経』のみを真実の教と言われ、その『大無量寿経』でも弥陀の四十八願中、特に第十八の願を根本とせられた。更に、この十八願の真意を開顕せられた、釈迦の『成就文』をもって『至極』の教えである、と親鸞聖人は御教示くだされた。

親鸞聖人は、『本願』は『根本』ではあるが『至極』ではない。『至極』は『成就文』の教えであると言われている。
「至極」とは、「一実であり、円満であり、真の教であり、真宗であり、これ以上、肝要な教えはない」ということである。

また、覚如上人はこうも言われている。
「かの心行を獲得せんこと、念仏往生の願成就の「信心歓喜乃至一念」等の文をもって依憑とす、このほか未だ聞かず」

親鸞聖人は、「信心歓喜乃至一念」と説かれている『成就文』四十字の教えを、浄土真宗の安心であると断定し、真実の信心(心行)獲得したか、どうかの物差しとされた。
今まで『成就文』以外の教えを聖人から、この覚如はお聞きしたことがない。

いかに親鸞聖人が『成就文』の教え以外に教えられなかったか。覚如上人の「このほか未だ聞かず」とまで言われていることでも明らかであろう。

蓮如上人の『御文章』もまた同じである。
『これによりて、「南無阿弥陀仏」という六字は、偏に我等が往生すべき他力信心の謂をあらわしたまえる御名なりと見えたり。この故に、願成就の文には、「聞其名号・信心歓喜」と説かれたり。
この文の意は「其の名号を聞きて信心歓喜す」といえり。「其の名号を聞く」というは、ただおおように聞くにあらず。善知識にあいて、南無阿弥陀仏の六の字の謂をよく聞き開きぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりと心得られたり』
(三帖目六通)

『そもそも、当流に立つる所の他力の三信というは、第十八の願に「至心・信楽・欲生我国」といえり。これ即ち三信とはいえども、唯弥陀をたのむところの行者帰命の一心なり。その故は如何というに、宿善開発の行者、一念弥陀に帰命せんと思う心の一念発るきざみ、仏の心光、かの一念帰命の行者を摂取したまう。その時節を指して、「至心・信楽・欲生」の三信とも言い、又この意を願成就の文には「即得往生・住不退転」と説けり』 (四帖目一通)

『願成就の文には、「聞其名号・信心歓喜」と説かれたり。この文の意は「其の名号を聞きて信心歓喜す」といえり』(三帖目六通)『この意を願成就の文には「即得往生・住不退転」と説けり』 (四帖目一通)。
など、蓮如上人も『弥陀の本願』を常に『成就文』の教えで、一貫して説かれていることが知られる。

これらの親鸞聖人・覚如上人・蓮如上人のお言葉など、『成就文』以外に親鸞聖人の教えのないことが明示されている。

【第4回】田中氏の主張メール(1)

【徹底検証】

双方、それなりに時間と体力を費やして、阿弥陀仏の『本願』や釈迦の『成就文』、親鸞聖人の『教え』に就いての、田中氏の領解が明らかになった。以下、田中氏のメールを紹介することにする。

◆平成19年10月20日のメール
尊号真像銘文には
『「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり』

『「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり』
と記述されています。
いずれも、「至心信楽をえた」者が極楽に生まれなければ仏に成らないという意味ですから、「若不生者」は、極楽に生まれなければ、という意味になります。

◆平成19年10月20日のメール
また、唯信鈔文意には、
『「来迎」というは、「来」は浄土へきたらしむという。これすなわち若不生者のちかいをあらわす御のりなり。穢土をすてて、真実報土へきたらしむとなり』
と記述されています。
これも同様に、親鸞聖人は、若不生者を真実報土に生まれることと解釈されています。
本願についての解釈が親鸞聖人と異なってはならないと考えます。

◆平成19年12月2日のメール
私が、いつ(「若不生者」の「生」を)、「死後、極楽へ生まれることだけ」と断定しましたでしょうか?

◆平成19年12月4日のメール
貴社の一番の問題は、浄土真宗で「生まれる」といっても二通りの意味があることを理解しておらず、混同しておられることです。ここで「生」と「往生」は、ほぼ同じ意味と受け取って頂いて結構です。
一つ目の「生」は、ビデオの内容で言えば「不体失往生」であり、生きている時に「信楽をえる」ことを「生」と言います。十八願では、「至心信楽欲生我国」に当たります。
二つ目の「生」は、死んで真実報土に生まれることを言います。十八願では、「若不生者」に当たります。
同じ「生」の字を使っていても、意味は全く違います。

◆平成19年12月15日のメール
「若不生者」と極楽に生まれられるのは、「信楽をえた」人だけです。だから、不離の関係があるのです。
しかし、「極楽に生まれる」ことと「信楽をえた」ことは、全く違います。

◆平成19年12月15日のメール
文法的に見ても、親鸞聖人の解釈から見ても、この文章(「若不生者のちかいゆえ 信楽まことにときいたり 一念慶喜する人は往生必ず定まりぬ」『浄土和讃』)は「若不生者と誓われているから、信楽をえた人は、死んで往生することが、かならず定まるのだ」という意味になります。

◆平成19年12月17日のメール
本願を信ずる心は、阿弥陀仏より賜る心ですから、本願文の一部を疑い、残りを信じるということは無いと思います。

◆平成19年12月22日のメール
「信楽」が「生まれる」のは、「若不生者の誓」の「至心信楽欲生我国」の部分に当たります。「若不生者不取正覚」に当たるのは、「浄土に生まれる」です。

◆平成19年12月26日のメール
十八願の「至心信楽」の誓いによって、信楽がえらえるのです。そして十八願の「若不生者」の誓いによって、極楽浄土に生まれられるのです。

◆平成19年12月27日のメール
「信楽」に生まれた人を、さらに「極楽に生まれさせる」と誓われているのが、「若不生者」なのです。

◆平成20年1月8日のメール
親鸞聖人は、「若不生者」の「生」を「極楽浄土に生まれる」という解釈以外されていないのは明らかです。

◆平成20年1月14日のメール
私達が信楽に生まれるのは、「弥陀の本願力」によるものだということに異論はありません。

◆平成20年2月2日のメール
「信楽」は「どうして生まれるのか」、「なんの力で生まれるのか」、「いつ生まれるのか」ということは、本願文には明示されておりません。
だからこそ、釈迦が本願成就文で説明されたのです。

◆平成20年2月8日のメール
(「信楽」は「どうして生まれるのか」「なんの力で生まれるのか」「いつ生まれるのか」、)私は「本願文での根拠」は知りません。

◆平成20年2月15日のメール
親鸞聖人が「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」と仰っているのは、死んで極楽に生まれてから仰ったことではありません。
つまり、これは、「若不生者不取正覚」という力によって「生まれさせられた」、すなわち「本願の実報土に生まれさせられた」慶喜では無いということです。

◆平成20年3月16日のメール
「即得往生住不退転」は、不体失往生であり、「若不生者」は極楽往生ですから、この2つを同じだと考えるのは誤りです。

◆平成20年3月16日のメール
「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていないから、「若不生者」は生きている間だと言われたいのでしょうか?
だとすれば、「若不生者」の「生」には、死後のことは一切含まれないということになりますが、そういう主張ですか?

◆平成20年3月24日のメール
本願文の「至心信楽欲生我国」の真意を釈尊が開顕されたのが『本願成就文』ではありませんか。

◆平成20年3月25日のメール
『親鸞聖人が「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ」と断言されている。それ以外の意味ではないのは明白です』
(次回に続く)

【第5回】田中氏の主張メール(2)

【徹底検証】

◆平成20年4月2日のメール
もし貴方が、『本願成就文』を、『本願文』漢字三十六字の総てを解説されたものだと理解されているのであれば、その考え方には反対です。

◆平成20年4月17日のメール
(『本願成就文』は、「本願文」のどこまでの解説で、「本願文」のどの部分が解説に入らないのか)、何文字目から何文字目というような、文字数で尋ねられても、私には分かりません。

◆平成20年4月17日のメール
教行信証のどこにも、「若不生者」の「生」に「不体失往生」の意味もあると仰っている文証が存在しないということが、私の主張を裏付ける文証です。

◆平成20年4月17日のメール
本願成就文は、信心をえるとはどういうことかを解説された文章であって、本願文の何から何まで総てを解説したものだという貴方の考えには反対です。

◆平成20年4月17日のメール
『本願成就文』そのものには、死後のことは説かれていないと考えて良いと思います。

◆平成20年4月17日のメール
名号に、死後、極楽に生まれさせる働きがあります。

◆平成20年5月25日のメール
親鸞聖人は「若不生者不取正覚」を当益として、「即得往生住不退転」を現益として解釈されています。
ですから、どちらでも良い、という訳にはいかないのです。親鸞聖人が、不体失往生の根拠とされたのは、「即得往生住不退転」であって、「若不生者不取正覚」では無かったのです。

◆平成20年6月4日のメール
私は、「親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは『若不生者不取正覚』ではなく、『即得往生住不退転』であった」と結論づけました。

◆平成20年6月4日のメール
浄土真宗で「至極」と言われる教えは本願成就文しかありません。それは、本願成就文によらねば、不体失往生の教えを明らかにすることが出来ないからです。

◆平成20年6月18日のメール
「即得往生住不退転」で不体失往生した人だけが、「若不生者不取正覚」と体失往生できますから、密接不離な関係がありますが、イコールではありません。

◆平成20年6月18日のメール
なお、口伝抄では、不体失往生の根拠として「至心信楽」が使われています。本願文で不体失往生に対応する部分を、あえて挙げよと言われるのであれば、この言葉と考えるべきでしょう。

◆平成20年6月20日のメール
不体失往生の根拠は「即得往生住不退転」と答えるのが適当ですが、あえて「本願文」で挙げよと言われた場合、「至心信楽」以外の言葉は見当たりません。

◆平成20年6月28日のメール
「本願を信受する」とは、「本願に疑いが晴れる」ということです。

◆平成20年6月28日のメール
貴方の根拠(「信受本願 前念命終(即入正定聚之数)即得往生 後念即生(即時入必定、又名必定菩薩也)」『愚禿鈔』)は、「至心信楽をえる」と同時に「即得往生」するということが書かれているだけで、「若不生者」については触れられていません。

◆平成20年7月1日のメール
信楽をえさせるのは、何方のどんなお力かとお尋ねですが、阿弥陀仏の調熟・破闇光明の働きです。

◆平成20年7月1日のメール
親鸞聖人は、上記(「若不生者 不取正覚」というは、…」『尊号真像銘文』)のように、至心信楽をえた人(即得往生した人)が、死んで極楽往生するのが「若不生者」だと断定されています。

◆平成20年6月4日のメール
「本願成就文」は「本願文」三十六文字の総べてを解説されたものだという貴方の主張に基づけば、本願成就文にも死後のこと(当益)が説かれていなければなりません。
ところが、貴方は、本願成就文は「この世の救い」以外に説かれていないと断言されました。仰っていることが矛盾しています。

◆平成20年6月23日のメール
☆「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。(3月9日)
☆「本願成就文」の教えはイコール「本願文」(6月19日)
チューリップ企画が、『「本願文」には、死後のことは一切説かれていない』と、死後の往生を否定したことは明白です。

以上、田中氏の問題のメールを挙げてみた。

【第6回】かくて判明した根本的相異点

【徹底検証】

その間、約十ヵ月、メール交換120通余、明らかになったことは種々あるが、田中氏とチューリップ企画の見解に根本的な相異点が判明したことが何よりの収穫であったと思われる。それは肝心の『弥陀の本願』と『成就文』についての見解が、全く異るところにあったのである。

チューリップ企画の『成就文』は、『本願文』のすべての解説である、という領解に対して、田中氏は全く異なっていた。
『成就文』は『本願文』の一部の解説であって、すべての解説ではないというのが田中氏の見解であった。

その田中氏の明らかな根拠メールを、もう一度挙げておこう。

◆平成20年3月24日のメール
本願文の「至心信楽欲生我国」の真意を、釈尊が開顕されたのが『本願成就文』ではありませんか。

◆平成20年4月2日のメール
もし貴方が、『本願成就文』を、『本願文』漢字三十六字の総てを解説されたものだと理解されているのであれば、その考え方には反対です。

◆平成20年4月17日のメール
(『本願成就文』は、「本願文」のどこまでの解説で、「本願文」のどの部分が解説に入らないのか)、何文字目から何文字目というような、文字数で尋ねられても、私には分かりません。

◆平成20年4月17日のメール
本願成就文は、信心をえるとは、どういうことかを解説された文章であって、本願文の何から何まで総てを解説したものだという貴方の考えには反対です。

◆平成20年5月25日のメール
親鸞聖人は「若不生者不取正覚」を当益として、「即得往生住不退転」を現益として解釈されています。
ですから、どちらでも良い、という訳にはいかないのです。親鸞聖人が、不体失往生の根拠とされたのは、「即得往生住不退転」であって、「若不生者不取正覚」では無かったのです。

◆平成20年6月4日のメール
私は、「親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは『若不生者不取正覚』ではなく、『即得往生住不退転』であった」と結論づけました。

◆平成20年6月18日のメール
「即得往生住不退転」で不体失往生した人だけが、「若不生者不取正覚」と体失往生できますから、密接不離な関係がありますが、イコールではありません。

◆平成20年6月20日のメール
不体失往生の根拠は「即得往生住不退転」と答えるのが適当ですが、あえて「本願文」で挙げよと言われた場合、「至心信楽」以外の言葉は見当たりません。

◆平成20年年6月4日のメール
「本願成就文」は「本願文」三十六文字の総べてを解説されたものだという貴方の主張に基づけば、本願成就文にも死後のこと(当益)が説かれていなければなりません。
ところが、貴方は、本願成就文は「この世の救い」以外に説かれていないと断言されました。仰っていることが矛盾しています。

田中氏の主張は、一貫して『成就文』は『本願文』の一部「至心信楽欲生我国」の釈尊の解説であって、『本願文』すべての解説ではない、という理解であることが明白である。果たして、真実の親鸞聖人の教えはどうなのか、徹底検証しなければならない。

【第7回】田中氏の「成就文」の領解

【徹底検証】

弥陀の『本願文』三十六文字すべてを、釈迦が解説したのが『成就文』というチューリップ企画の領解に対して、田中氏は次のように異議を唱える。

◆平成20年4月2日のメール
もし貴方が、『本願成就文』を、『本願文』漢字三十六字の総てを解説されたものだと理解されているのであれば、その考え方には反対です。

◆平成20年4月17日のメール
(『本願成就文』は、「本願文」のどこまでの解説で、「本願文」のどの部分が解説に入らないのか)、何文字目から何文字目というような、文字数で尋ねられても、私には分かりません。

『成就文』は『本願文』の一部の解説であって、すべての解説ではないと田中氏は言うのである。
では、どこまでが解説されていて、どこは解説されていないのか尋ねると「全く分かりません」と言われる。

『成就文』以外、親鸞聖人の教えはないのに、その『成就文』と『本願』の関係が分からないと仰る。これでは、聖人の教えをあれこれ言える立場ではなくなってしまう。『本願』と『成就文』との関係は、決して「分かりません」で済ませられる問題でないからである。

ところがまた、驚くべきことに田中氏は、「分かりません」と言いながら、一方では〝『成就文』は『本願文』すべての解説ではない〟とか、”「至心信楽欲生我国」の釈迦の解明である”ともいわれているのである。これは矛盾か否かは、今後の検証で鮮明になるだろう。

まず田中氏が『成就文』を、どのように理解されているのか、氏のメールで確認しておこう。

◆平成20年3月24日のメール
本願文の「至心信楽欲生我国」の真意を、釈尊が開顕されたのが『本願成就文』ではありませんか。

◆平成20年4月17日のメール
本願成就文は、信心をえるとは、どういうことかを解説された文章であって、本願文の何から何まで総てを解説したものだという貴方の考えには反対です。

『成就文』は、弥陀の本願三十六文字のうち「至心信楽欲生我国」の八文字を、釈尊が詳説されたものだとか、「信心をえるとは、どういうことか」を開顕されたものとか、田中氏の主張はあくまでも『成就文』は『本願文』の一部の解説であるいう言い分は一貫している。一体、田中氏は、『成就文』を知っていられるのだろうか、とさえ疑われる。
それで次に、『成就文』の教えとはいかなるものか挙げてみることにする。

【第8回】『本願文』の「信楽」は、『成就文』の「信心歓喜」

【徹底検証】

親鸞聖人が「一実・円満の真教、真宗これなり」と喝破され、生涯、唯一つ教えていかれた『成就文』は、『大無量寿経下巻』の始めに説かれている。 以下、その原文(漢字40文字)である。

【諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念
至心廻向 願生彼国 即得往生 住不退転
唯除五逆 誹謗正法】

訓読すれば、こうなる。
「諸有の衆生、其の名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に廻向せしめたまえり。彼の国に生れんと願ずれば、即ち往生を得、不退転に住す。
唯五逆と正法を誹謗せんとをば除かん」

弥陀の本願の願意を、釈迦が解説されたものである。
この『成就文』で釈迦は、弥陀が『本願文』で誓われている「信楽を獲る」に就いて、
「其の名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に廻向せしめたまえり」
と詳説されている。

この解説によって釈迦は、三つのことを鮮明になされている。
(1)は、「信楽」(信心歓喜)を獲るのは、阿弥陀仏が完成された『名号』を聞いて(頂いて)、であるということ。
(2)には、その「信楽」(信心歓喜)は「一念」で“獲られる