㈱チューリップ企画の販売するアニメビデオ『世界の光・親鸞聖人』について、㈱チューリップ企画と田中一憲氏の論戦の記録を公開しています。

【徹底検証】

読者の皆さんへ

これまでのメールの記録でご覧の通り、自身が記されたことへの問いにも答え切れず、突如、田中氏は受信を拒否されました。よって過去のような論戦継続は不可能となりました。誠に残念至極です。
だが、弥陀の本願の「若不生者不取正覚」は、田中氏のいう「死後のことだけなのか」、チューリップ企画のいうように、「この世は信楽に生まれさせ、死後、真実報土に生まれさせる」という誓いなのか。
明らかにしなければなりません。
正しい親鸞聖人の教えが知りたいと熱望されている方々のために、継続して当ブログで、田中氏の主張を、8月1日から徹底検証していきます。

【第1回】論戦の発端

平成19年8月18日。
田中一憲と名乗る方から、以下のような問いかけを受けた。

【先日、知人が購入した貴社の仏教ビデオ「世界の光・親鸞聖人」第2巻を拝見させて頂きました。そのシーンの中に、以下のやりとりがあります。
(善恵房)「親鸞殿、お経のどこに、この世で救われるという根拠がありましょうか?」
(親鸞聖人)「勿論、ございます。阿弥陀如来の本願に、『若不生者 不取正覚』とあります。必ず生まれさせると誓っておられるではありませんか!」

不勉強のためか、この若不生者の『生』を、この世で生まれると解釈している学説を聞いたことがございません。どのような根拠に基づいて、このような解釈をされたのか、お示し頂きたく思います。
こと仏法のことでありますので、内容によっては、ご返信を公開させて頂くことも考えておりますので】

「こと仏法のこと、内容によっては、ご返信を公開させて頂くことも考えております」と披瀝されていることからも、強く親鸞聖人の教えを明らかにしたいという真剣さが窺えた。
よって、このメールを発端として、どちらが正しい親鸞聖人の教えか、論戦が始まったのである。期間は約10カ月、相互に交わすメールは120通余りに及ぶ。 【本文を読む】

【第2回】なぜ見解が分かれたか

以上、最も大切な阿弥陀如来の本願の「若不生者」の「生」を、田中氏は、
「死んで極楽に生まれることだけ」
という主張に対して、チューリップ企画は
「この世は信楽に生まれ、死後、極楽に生まれること」
と主張、双方の理解の違いを明確にし、この度の論戦発生の所以を述べた。

ここで素朴な疑問が湧いて来る人もあろう。 【本文を読む】

【第3回】覚如・蓮如上人のお言葉で

前回で、釈迦が『弥陀の本願』の真意を開顕された『成就文』の外に、親鸞聖人の教えの無いことを聖人のお言葉で明らかにした。
続いて親鸞聖人の曾孫・覚如上人、蓮如上人のお言葉で、『成就文』の外に親鸞聖人の教えの無いことを確認しておこう。

覚如上人は『改邪鈔』に、こう述べていられる。 【本文を読む】

【第4回】田中氏の主張メール(1)

双方、それなりに時間と体力を費やして、阿弥陀仏の『本願』や釈迦の『成就文』、親鸞聖人の『教え』に就いての、田中氏の領解が明らかになった。以下、田中氏のメールを紹介することにする。 【本文を読む】

【第5回】田中氏の主張メール(2)

◆平成20年4月2日のメール
もし貴方が、『本願成就文』を、『本願文』漢字三十六字の総てを解説されたものだと理解されているのであれば、その考え方には反対です。 【本文を読む】

【第6回】かくて判明した根本的相異点

その間、約十ヵ月、メール交換120通余、明らかになったことは種々あるが、田中氏とチューリップ企画の見解に根本的な相異点が判明したことが何よりの収穫であったと思われる。それは肝心の『弥陀の本願』と『成就文』についての見解が、全く異るところにあったのである。

チューリップ企画の『成就文』は、『本願文』のすべての解説である、という領解に対して、田中氏は全く異なっていた。
『成就文』は『本願文』の一部の解説であって、すべての解説ではないというのが田中氏の見解であった。

その田中氏の明らかな根拠メールを、もう一度挙げておこう。 【本文を読む】

【第7回】田中氏の「成就文」の領解

弥陀の『本願文』三十六文字すべてを、釈迦が解説したのが『成就文』というチューリップ企画の領解に対して、田中氏は次のように異議を唱える。 【本文を読む】

【第8回】『本願文』の「信楽」は、『成就文』の「信心歓喜」

親鸞聖人が「一実・円満の真教、真宗これなり」と喝破され、生涯、唯一つ教えていかれた『成就文』は、『大無量寿経下巻』の始めに説かれている。 以下、その原文(漢字40文字)である。

【諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念
至心廻向 願生彼国 即得往生 住不退転
唯除五逆 誹謗正法】

訓読すれば、こうなる。
「諸有の衆生、其の名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に廻向せしめたまえり。彼の国に生れんと願ずれば、即ち往生を得、不退転に住す。
唯五逆と正法を誹謗せんとをば除かん」

弥陀の本願の願意を、釈迦が解説されたものである。 【本文を読む】

【第9回】名号のお働き

前回で『本願文』の「信楽を獲る」ことを『成就文』に釈迦は、「其の名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に廻向せしめたまえり」と説き、「信楽」を「信心歓喜」と換言され、南無阿弥陀仏の『名号』のお力によって「信心歓喜」の身になることを開顕されていることを明らかにした。その「破闇満願」の力がある名号のお働きを蓮如上人は、平易にこう詳解される。 【本文を読む】

【第10回】名号を頂けばどうなるか

では、『名号』の働きによって「無明長夜の闇が晴れ、衆生の志願を満たされ」て、破闇満願の身になると私たちは、一体どう変わるのであろうか。まず、親鸞聖人の教えをお聞きしよう。 【本文を読む】

【第11回】覚如・蓮如上人の信楽の教え

破闇満願の働きのある南無阿弥陀仏の『名号』を阿弥陀仏から頂いて、無明長夜の闇が晴れ、衆生の志願を満たされたことを、『本願文』では「信楽」と説かれ、『成就文』では「信心歓喜」と言われている。

その「信楽」(信心歓喜)の身になるとは、どんなことか、前回、親鸞聖人のお言葉で一端を明らかにした。

親鸞聖人のお聖教は、すべて『本願文』では「信楽」、『成就文』では「信心歓喜」と説かれている世界のことばかりであるから、一々提示する暇がないが、身近な『正信偈』のお言葉で一つ「信心歓喜」の世界を挙げておこう。 【本文を読む】

【第12回】信楽は一念で獲得

弥陀が『本願文』で誓われている「信楽を獲る」に就いて、釈迦は『成就文』で、
「其の名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に廻向せしめたまえり」
と解説されている。これによって、以下の三つのことが明らかになった。

(1)「信楽」(信心歓喜)を獲るのは、阿弥陀仏が完成された『名号』を聞(頂いて)いて、であるということ。
(2)その「信楽」(信心歓喜)は「一念」で“獲られる”ということ。
(3)「信楽を獲て信心歓喜」するのは、全く阿弥陀仏のお力であるということ。

【本文を読む】

【第13回】一念は真実信心の信相

先回に続いて「時尅の一念」について、覚如上人や蓮如上人のお言葉を少し挙げておこう。
覚如上人は『改邪鈔』に「時尅の一念」を、こうも教えていられる。
「凡夫往生の得否は、乃至一念発起の時分なり。・・・乃至・・・然れば祖師聖人御相承弘通の一流の肝要これにあり。これを知らざるをもって他門とし、これを知れるをもって御門弟のしるしとす」
『執持抄』には、
「平生の一念によりて、往生の得否は定まるものなり。平生のとき不定の念に住せばかなうべからず」
【本文を読む】

【第14回】機法二種深信とは

「信相の一念」とは、弥陀の本願に全く疑心がなくなったことである。それは、二つのことがハッキリすることだ。
真実の自己の「実機」と、弥陀の本願の「真法」とである。
真実の自己の「実機」をハッキリ知らされたのを「機の深信」といい、弥陀の本願の「真法」をハッキリ知らされたのを「法の深信」という。
真実の信楽には、この二つの「深信」が同時にあるから「二種一具の深信」と言われることを先回明らかにした。
【本文を読む】

【第15回】法の深信とは

次に、「法の深信」でハッキリ知らされたことを善導大師は、こう述べられる。
『二には決定して、「彼の阿弥陀仏四十八願をもって衆生を摂受したまうこと、疑無く慮無く彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得」と、深信す』
この世も未来も、絶対の幸福に救い摂るという弥陀の本願、まことだったとハッキリ知らされた、と仰っているお言葉である。
【本文を読む】

【第16回】弥陀より賜る“信楽”

釈迦の『成就文』で明らかになった(1)(2)についての説明は、一応終わったので、次に、
(3)の「信楽を獲て信心歓喜」するのは、全く阿弥陀仏のお力であると、どうして明らかなのか、善知識方のご教導をお聞きしよう。
【本文を読む】

【第17回】若不生者は、死後か平生か

前回までで、田中と名乗る人の問題提起で、弥陀の本願文の「信楽」について、釈迦や親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人のお言葉で明らかにしてきた。
【本文を読む】

【第18回】親鸞聖人の即得往生の解説

弥陀の「若不生者、不取正覚」の仏意を、釈迦は『成就文』に「即得往生、住不退転」の八文字で解説された。その「即得往生、住不退転」の釈迦の教えを、親鸞聖人は『愚禿抄』に、次のように解明されている。 【本文を読む】

【第19回】『成就文』の即得往生の正意

前回、親鸞聖人が「本願を信受するは、前念命終なり。(即ち、正定聚の数に入る) 即得往生は、後念即生なり(即時に必定に入る。また必定の菩薩と名くる也)」と説かれている意味を明らかにした。

「弥陀の本願を信受した」一念に、心が「死んで、生まれる」という、「信受本願・前念命終 即得往生・後念即生」の親鸞聖人の教えを、次に覚如上人から聞いてみることにしよう。 【本文を読む】

【第20回】なぜ若不生者と誓われたのか

釈迦の『成就文』によって、弥陀の「若不生者」の「生」は「死んで極楽へ生まれる」ことではなく、「平生に信楽に生まれる」ことであることが明らかになった。

言い換えれば、弥陀が「若し、生まれずは私は正覚を取らぬ」と誓われているのは、「若し、極楽に生まれずは正覚を取らぬ」ではなく、「若し、信楽に生まれずは正覚を取らぬ」というお約束だということである。
されば弥陀が「若」の一字に正覚(命)を懸けていられるのは、まさしく「信楽」であることは明らかだろう。 【本文を読む】

【第21回】苦しみ悩み流転輪廻する真因

如何に我々が「信楽の身に生まれる」ことの難しいかを、先回、釈迦や親鸞聖人のお言葉で教えて頂いた。次に蓮如上人のご教導を聞いてみよう。 【本文を読む】

【第22回】「若不生者」で「生まれさせられる」もの

我々を、今までも、今も、今からも苦しめ続ける最も怖ろしい、親鸞聖人の「助・正間雑し、定・散心雑わる心」とは何か。また「疑情」と言われているものは如何なるものか。それが「信受本願」の一念に死ぬと言われているものとは一体、どんな心であろうか。

世間では我々を苦しめているものは、欲や怒りや愚痴の煩悩だと思われているが、親鸞聖人は三世を貫いての苦悩の元凶は、そんな煩悩ではないことを教えられている。ではその元凶はなにか。 【本文を読む】

【第23回】現当二益の法門

『本願文』の「若不生者」の「生」が『成就文』の「即得往生」であり、親鸞聖人の「信受本願・前念命終、即得往生・後念即生」の現益であるとすれば、浄土真宗の教えは一益法門になるではないか、と田中氏は非難されている。

浄土真宗・親鸞聖人の教えは、現当二益の法門であることは周知の事実である。 【本文を読む】

【第24回】田中氏のメールの検証

ここまでは、田中氏の提起された阿弥陀仏の『本願文』の「若不生者」の「生」に関する、親鸞聖人や覚如上人、蓮如上人方のご教示の概略を述べてきた。
そこでこれからは、具体的に田中氏からのメールを提示して、これら善知識方の教えを定規に検証してみることにしたい。

論点は一貫して、『本願文』の「若不生者」の「生」一つである。弥陀が「生まれさせる」と正覚の命を懸けて誓われている願意を、田中氏は「死後、極楽に生まれることだけ」と主張し、我々は「この世、信楽に生まれさせること」と主張してきた。
このような見解の相違は、両者の『成就文』の理解が根本的に異なることが原因である。 【本文を読む】

【第25回】田中氏の『唯信鈔文意』の誤解

田中氏は、「若不生者」の「生」は「死んで極楽に生まれることだけ」という自説の根拠として、『唯信鈔文意』のご文も提示されている。 【本文を読む】

【26回目】田中氏の一貫した主張

田中氏の発言の検証を続けよう。彼は、

◆平成19年12月2日のメール
私が、いつ(「若不生者」の「生」を)、「死後、極楽に生まれることだけ」と断定しましたでしょうか?

とも言われている。
論より証拠。田中氏本人のメールを示しておこう。 【本文を読む】

【第27回】田中氏の「往生」の誤解

『成就文』の教えを知られない故の、悲しい誤解が続く。

◆平成19年12月4日のメール
貴社の一番の問題は、浄土真宗で「生まれる」といっても二通りの意味があることを理解しておらず、混同しておられることです。ここで「生」と「往生」は、ほぼ同じ意味と受け取って頂いて結構です。

一つ目の「生」は、ビデオの内容で言えば「不体失往生」であり、生きている時に「信楽をえる」ことを「生」と言います。十八願では、「至心信楽欲生我国」に当たります。
二つ目の「生」は、死んで真実報土に生まれることを言います。十八願では、「若不生者」に当たります。
同じ「生」の字を使っていても、意味は全く違います。
このように田中氏は、浄土真宗で「生まれる(=往生)」といっても「この世、信楽に生まれる(=不体失往生)」と「死後、真実報土に生まれる(=体失往生)」の二通りあり、全く違うものである。なのに、「この二つの往生を、チューリップ企画は混同している」とご忠告されている。
果たして、浄土真宗の「往生」を誤解しているのはどちらであろうか。二つの往生は、全く無関係の別物なのだろうか。「成就文」の「即得往生」についての善知識方のご教示を、重ねて頂いてきたが、この問題は根深く、善恵房証空でも間違えたところであるから、再往を述べねばならないだろう。 【本文を読む】

【第28回】「若不生者」と「信楽」の関係

チューリップ企画が「若不生者」の「生」は「平生に信楽に生まれること」と主張するのに対し、田中氏は「死んで極楽に生まれることだけ」と主張される。
はたして「若不生者」と「信楽」は、全く関係ない、切り離せるものなのか。
田中氏自身は、こう言われている。 【本文を読む】

【第29回】「若不生者のちかい」の真意

弥陀が「若不生者」と命をかけられているのは、極楽に生まれる「体失往生」か、この世で信楽に生まれる「不体失往生」か、田中氏の主張の検証を続けよう。 【本文を読む】

【第30回】本願を信受する時

本願文を分断して「至心信楽欲生我国」と「若不生者不取正覚」を切り離し、この二つを完全に別事として領解されている田中氏の誤りは、検証してきた通りである。
ところが一方で、こうも言われている。

◆平成19年12月17日のメール
本願を信ずる心は、阿弥陀仏より賜る心ですから、本願文の一部を疑い、残りを信じるということは無いと思います。

「思います」どころの話ではない。聞信の一念に「本願文」三十六文字すべてに疑い晴れるのが弥陀の救いであり、親鸞聖人の教えであることは、浄土真宗の常識である。

「本願すべてに露チリほどの疑心も無くなった」ことを聖人は、『愚禿抄』に
「信受本願(本願を信受する)」
とか、そのご自身の実体験を、
「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」(教行信証)
と告白されている。「摂取不捨の真言」も「超世希有の正法」も、ともに「弥陀の本願」三十六字のことである。「助かるだろうか」の後生不安な心(疑情)が一念で晴れ渡り、「助かったことの不思議さよ」と後生明るい心(信楽)と晴れた時が、「まことなるかな、弥陀の本願」と一念慶喜する時であり、三十六文字すべてに疑心が無くなった時なのである。だから本願の一部を疑い、残りを信じる、ということは有り得ない。
すなわち、「若不生者(必ず生まれさせる)」の誓いに疑心が晴れるのは、「信楽に生まれた(不体失往生)」時であって、決して「死んで極楽に生まれた(体失往生)」時ではないのである。これを『愚禿抄』に、
「信受本願 前念命終 即得往生 後念即生」
と教示されていることは、再三述べてきた。
〝「若不生者の誓い、まことだった」と疑心晴れた(信受本願)時が、後生暗い心が死んで(前念命終)、信楽が生まれた(後念即生)時である。これを釈迦は「成就文」に「即得往生」と説かれている〟
と、まさに「若不生者」の誓いは「不体失往生」であることを鮮明にされたお言葉なのである。

田中氏は後で、「この『愚禿抄』は、『至心信楽』についてだけ言われた御文であって、『若不生者不取正覚』についてはどこにも触れられていない。だから貴方の根拠にならない」と反論されたので、驚いたり呆れたりだったが、では「信受本願」の「本願」は、「若不生者の誓い」とは別物なのだろうか。氏の「本願文」には「若不生者不取正覚」の八字はすっぽり抜けているのであろうか。あるいは「本願の一部を疑い、残りを信受するということは無い」という発言が、単なる建て前なのだろうか。

かかる明らかな矛盾にも、「信楽」と「若不生者」を切り離す田中氏の混乱が、露呈しているのである。

【第31回】「若不生者」に疑い晴れるのは平生

親鸞聖人が『尊号真像銘文』に「信楽というは、如来の本願、真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば、信楽ともうすなり」と仰せの通り、弥陀の本願にツユチリほどの疑いも無くなった心を「信楽」という。
本願を信ずる心(信楽)が生まれたとは、本願三十六文字すべてに疑い晴れたことであり、本願の一部を疑って、残りを信ずることは無いと前回、明らかにした。
それなのに田中氏は、「信楽に生まれる」にあたるのは「至心信楽欲生我国」だけと限定し、あとの「若不生者不取正覚」は「浄土に生まれる」ことだと主張される。

◆平成19年12月22日のメール
「信楽」が「生まれる」のは、「若不生者の誓」の「至心信楽欲生我国」の部分に当たります。「若不生者不取正覚」に当たるのは、「浄土に生まれる」です。

もし、田中氏が言われるように、「若不生者」は〝死後、浄土に生まれることだけ〟とすれば、「若不生者」の誓いまことかどうか、死んでみなければハッキリしない。「信楽」に生まれても、本願の一部に疑心が残ることになる。

こんな自己矛盾が生じたのも、一実円満の真教『成就文』を誤読したからであろう。
『成就文』では「若不生者不取正覚」の真意を「即得往生住不退転」と解説され、死んだ後ではない、平生の一念に不退転の心(信楽)に生まれる「不体失往生」だと説示されている。
田中氏が繰り返された『「若不生者不取正覚」に当たるのは、「浄土に生まれる」です』という説明は、どこにもない。
「信楽」に必ず生まれさせてみせると、弥陀が不体失往生に命を懸けられたお言葉が「若不生者」だから、誓願通り信楽に生まれたとき、「若不生者」の誓いまことだったと、三十六文字と一体になるのである。
「信楽が生まれること」と「若不生者」を分断する田中氏の主張を、引き続き『成就文』に基づいて検証しよう。

【第32回】あくまでも本願を分断する田中氏

さらに検証を続けよう。

◆平成19年12月26日のメール
十八願の「至心信楽」の誓いによって、信楽がえらえるのです。そして十八願の「若不生者」の誓いによって、極楽浄土に生まれられるのです。

繰り返し指摘してきたことだが、ここでも田中氏は、本願文を「至心信楽の誓」と「若不生者の誓」の二つに分断している。そして、「信楽が生まれる(不体失往生)」と「若不生者」を切り離しているのである。
「若不生者」は「死後だけ」という自説に、「本願文」をムリヤリ当てはめようとするからである。

「若不生者の誓」を「不体失往生」と鮮明にされた「成就文」の教えを知らねば、「本願文」を正しく領解することはできないと、いよいよ知られるであろう。「成就文」を「一実円満の真教」「至極」「依憑」と言われるゆえんである。

【第33回】弥陀の救いは一念で完成する

田中氏の、「若不生者の誓」すなわち「弥陀の本願」の誤解は、次のメールに端的に示されている。

◆平成19年12月27日のメール
「信楽」に生まれた人を、さらに「極楽に生まれさせる」と誓われているのが、「若不生者」なのです。

これが、なぜ氏の誤解を端的に示す文章と言えるのか。
「信楽に生まれた」ということの意味が全く分かっておられないことが、ここには如実に出ているからである。
それは、「さらに」の3文字にある。

「信楽に生まれた」ということは、往生一定の決定心になったことで、いつ死んでも極楽往生間違いなし、の大安心大満足の身になった、ということである。正定聚とは、そういうことである。
蓮如上人の有名な『聖人一流の章』には、「信楽に生まれた」ことを、こう書かれている。
「不可思議の願力として、仏の方より、往生は治定せしめたまう。その位を『一念発起・入正定之聚』とも釈し」
不可思議の願力(弥陀の本願力)によって、一念で往生が決定したことを、正定聚というのだと明らかにされている。

同様のことが『領解文』には、
「たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定」
と明記されている。

覚如上人の『執持鈔』には、
「平生の一念によりて、往生の得否は定まるものなり」
と、死後、極楽往生できるか否かは、平生の一念で決することが記されている。

この「信楽に生まれた一念」で「若不生者の誓まことだった」と『本願文』三十六文字すべてに疑い晴れることは、すでに繰り返し述べてきた。同時に『本願文』三十六文字と一体になるから、覚如上人は、
「本願や行者、行者や本願」(執持鈔)
とも言われている。
つまり、名号を頂いて「信楽に生まれた一念」に、弥陀の救いは成就完成しているのである。「信楽に生まれさせた力」とは別の力を「さらに」誓わなければ、極楽往生できないというものではない。

弥陀の救いを「極速円融」と親鸞聖人が仰るのも、一念で救いが完成するからこそである。それ以上加えなければならないものは、何ものもないのである。
この、弥陀の救いが一念で成就完成することを明らかにされたのが、ほかならぬ『成就文』ではないか。

田中氏のメールの「さらに」の三文字は、いかに田中氏が『本願文』を誤解しておられるか、『成就文』に無知であるかが象徴的に示されている、と言っても過言ではないだろう。

【第34回】「若不生者」の『成就文』による解釈

「若不生者」は「極楽に生まれさせる」ことだけであり、死後に限ると、田中氏は一貫して主張される。

◆平成20年1月8日のメール
親鸞聖人は、「若不生者」の「生」を「極楽浄土に生まれる」という解釈以外されていないのは明らかです。

いくら「明らかです」と言い張ろうと、『成就文』に根拠がなければ、聖人の教えにならない。
親鸞聖人は本願を一実・円満の真教『成就文』に忠実に解釈されたのだから、聖人が「若不生者」をどう解釈されたか知るには、『成就文』の正しい理解が必須である。

その『成就文』には現在の救いのみ説示され、死後のことは一切、説かれていない。だから聖人が「若不生者」は「死後、極楽に生まれること」だけと解釈されたご文など、あるはずがないのだ。
聖人のお言葉は、「若不生者」は死後に限るという田中氏の誤りを正されたものばかりである。

『成就文』には「若不生者」の真意を「即得往生住不退転」と解説され、弥陀が「必ず生まれさせてみせる」と命を懸けられたのは、「生きている時、信楽に生まれる」不体失往生であることを明示されている。
だから親鸞聖人は『愚禿鈔』で、「若不生者」の「生」は、『成就文』の「即得往生」であり、信楽の心に生まれることだと細説されていることは、すでに述べた。

『信受本願 前念命終 即得往生 後念即生』(愚禿鈔)

弥陀に救われた一念に迷いの心が死ぬ(前念命終)と同時に、「即得往生」と信楽の心にする(後念即生)。ここでも聖人は、「若不生者」と命を懸けられたのは、心が死んで生まれる現在の往生(即得往生)だと明言されている。まさしく『成就文』に合致した聖人のお言葉である。

なお、田中氏は平成20年6月28日のメールで、この『愚禿鈔』のお言葉は『「若不生者」については触れられていません』とも主張されているが、「信受本願」とは弥陀の本願まことだったと、本願三十六文字にツユチリほどの疑心もなくなり、本願と私が一つになったことである。「若不生者」を抜いた本願の一部に疑い晴れたことでは決してない。
本願と一体になった一念に、心の臨終と誕生の同時体験をさせられたと仰有っているのだから、本願のこの部分には「触れられていません」などという理屈が通るはずがなかろう。
「触れられていない」どころか、「若不生者」は「死後、極楽に生まれる」意味しかないという、現代もある根深い謬見を正されたお言葉なのである。

【第35回】「信楽」になる「本願文」の根拠

この論戦の争点は、一貫している。
私達を「信楽」にするのは、「何の力」か、ただ一つである。
それについての田中氏の見解は、こうである。 【本文を読む】

【第36回】「若不生者の誓、まことだった」の表明

田中氏は、また次のようにも言われている。

◆平成20年2月15日のメール
親鸞聖人が「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」と仰っているのは、死んで極楽に生まれてから仰ったことではありません。
つまり、これは、「若不生者不取正覚」という力によって「生まれさせられた」、すなわち「本願の実報土に生まれさせられた」慶喜では無いということです。

「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」と親鸞聖人が『教行信証』の冒頭に仰っているのは、当然ながら生きているときである。
「摂取不捨の真言」も、「超世希有の正法」も、「弥陀の本願」すなわち「若不生者の誓」であるから、「若不生者の誓、まことだった」と親鸞聖人はここで仰っているのである。

ところが、「若不生者不取正覚」の「生」は、死んで極楽(本願の実報土)に生まれることだけだ、と思い込んでおられる田中氏は、親鸞聖人の「必ず生まれさせる、弥陀の本願まことだった」という感動的なお叫びも、その真意が正しく読めないのであろう。
「『若不生者不取正覚』という力によって『生まれさせられた』慶喜ではない」と平然と言い放たれる。

では、親鸞聖人の「弥陀の本願まことだった」の表明は、一体なんなのか。弥陀の本願三十六文字から、「若不生者不取正覚」の八文字だけを抜いた「残りの二十八文字だけがまことだった」という意味だとでも言われるのであろうか。
そんな田中氏は、こうも言われているではないか。

◆平成19年12月17日のメール
本願を信ずる心は、阿弥陀仏より賜る心ですから、本願文の一部を疑い、残りを信じるということは無いと思います。

そのとおりである。
本願文の一部「若不生者不取正覚」を疑い、残りを信じるということはありえないのだ。

「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」は、明らかに、弥陀の本願三十六文字すべてが「まことだった」という表明であり、それは「若不生者不取正覚」という力によって「生まれさせられた」からに他ならない。それは、「死んで本願の実報土に生まれさせられた」慶喜ではもちろん無く、「生きているときに、信楽に生まれさせられた」慶喜であることも明白である。

まさに、「若不生者不取正覚」の八文字は、弥陀が「不体失往生」に正覚(仏のさとり)をかけておられるのだということを、親鸞聖人が自ら信知されて叫ばれたのが、「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」ではないか。

まちがった思い込みから、田中氏がお聖教のお言葉も正しく読めなくなっておられる、これは一つの例証であろう。

【第37回】「若不生者」と「即得往生」の関係

弥陀が「若不生者」と命を懸けられたのは、信楽に生まれる不体失往生だと、釈迦は成就文で「即得往生」と教えられている。これはこの世の救い(現益)である。
だが田中氏は、「若不生者」は死後、極楽に生まれる当益だから、「即得往生」とは異なると主張される。

◆平成20年5月25日のメール
親鸞聖人は「若不生者不取正覚」を当益として、「即得往生住不退転」を現益として解釈されています。
ですから、どちらでも良い、という訳にはいかないのです。親鸞聖人が、不体失往生の根拠とされたのは、「即得往生住不退転」であって、「若不生者不取正覚」では無かったのです。

「若不生者」と「即得往生」はイコールでない、これが田中氏の持論である。

◆平成20年6月18日のメール
「即得往生住不退転」で不体失往生した人だけが、「若不生者不取正覚」と体失往生できますから、密接不離な関係がありますが、イコールではありません。

成就文には不体失往生しか説かれていないから、田中氏の主張通りなら、成就文は「若不生者」抜きの不完全な解説になってしまう。たしかに田中氏の理解では、成就文は本願文すべての説明ではない。

◆平成20年4月17日のメール
本願成就文は、信心をえるとは、どういうことかを解説された文章であって、本願文の何から何まで総てを解説したものだという貴方の考えには反対です。

では、本願のどこの解説か確認したところ、全く分からないと告白されている。

◆平成20年4月17日のメール
(『本願成就文』は、「本願文」のどこまでの解説で、「本願文」のどの部分が解説に入らないのか)、何文字目から何文字目というような、文字数で尋ねられても、私には分かりません。

これでは、「若不生者」と「即得往生」はイコールでないの断言は何だったのか危ぶまれる。根拠を示せないことは、本人も認められている。

◆平成20年6月21日のメール
「若不生者不取正覚」と「即得往生住不退転」はイコールでないと仰った親鸞聖人の根拠があるかどうか、私は分かりません。

そんな田中氏が、本願で不体失往生を誓われたのは「若不生者」でないと言い張り、「至心信楽」と〝考えるべきでしょう〟と推測されるのだ。

◆平成20年6月18日のメール
本願文で不体失往生に対応する部分を、あえて挙げよと言われるのであれば、この言葉(至心信楽)と考えるべきでしょう。

「でしょう」と憶測している人に、「若不生者」は不体失往生でないと断定できようか。これも、根拠無き発言が真相だった。

◆平成20年6月21日のメール
『若不生者不取正覚』が不体失往生の根拠でないと仰った、親鸞聖人の文章があるのかどうか、私は分かりません。

「若不生者」が不体失往生を誓われた根拠は、釈迦の成就文に聞くべきであろう。

【第38回】「死後の往生を否定するのか」の疑難に答える

田中氏は、「チューリップ企画は『死後の往生』を否定した」と以下のようにくり返し非難して幕引きを計られた。

◆平成20年6月23日のメール
☆「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。(3月9日)
☆「本願成就文」の教えはイコール「本願文」(6月19日)
チューリップ企画が、『「本願文」には、死後のことは一切説かれていない』と、死後の往生を否定したことは明白です。

当方は「死後の往生」を否定したことなど一度もない。それどころか、「現在の往生」した人だけが「死後の往生」を得るのだから、「現在の往生(不体失往生)」を急げ、と力説されている親鸞聖人の教えを、開顕してきたのである。120通のメールのやり取りをご覧になれば、明白であろう。

では、「本願文」総ての解説である「成就文」に、「死後のことが一切説かれていない」のなら、「死後の往生」は何処に誓われているのだろうか。
親鸞聖人はこの問いに、「十一願」とその「成就文」を挙げておられる。
「十一願」(必至滅度の願)には、
「設い我仏を得んに、国中の人天、定聚にも住し、必ず滅度に至らずば、正覚を取らじ」
と誓われている。その「成就文」には、
「其れ衆生有りて、彼の国に生まるる者は、皆悉く正定之聚に住す。所以は何ん、彼の仏国の中には、諸の邪聚及び不定聚無ければなり」
と説かれている。
十一願に「国中の人天」とあるのは、「この世で信の一念に国中の人天になる」と親鸞聖人は教えられる。その根拠は、「十八願成就文」の、
「即得往生住不退転」
である。聖人はこの「即」を、平生の聞信の一念だとされ、「時を隔てず処を隔てず即座に往生し正定聚に住するのだ」と教えていられる。
この「十八願成就文」に腰を据えて親鸞聖人は、十一願成就文の「生彼国者」を、「彼の国に生まるる者は」と読まれ、
「彼の国に生まるる者は、皆悉く正定之聚に住す」
の御文を、
「弥陀の浄土に生まるる者は、この娑婆世界で正定聚になっている者だけである」
と領解された。ゆえに「十一願」の「定聚」は「現生正定聚」である、と断定され、弥陀の「十一願」は、
「現生正定聚の人を、死後、必ず浄土で仏覚を開かせる」誓いである、と聖人は説示されたのである。

このように、「死後の往生」を誓われた十一願(必至滅度の願)意を、「十八願成就文」を依憑として鮮明にされ、現当二益の弥陀の救いを開顕された方が親鸞聖人であった。

親鸞聖人の教えは、「本願成就文」以外にないことが、いよいよ明らかに知られるではないか。

【第39回】行の一念と信の一念

「弥陀の本願の『若不生者』の『生』は、この世のことではなく、死んでからの極楽往生のこと」と言う田中氏の見解が、いかに親鸞聖人のみ教えと異なるものであるかを、種々明らかにしてきた。

そもそも往生といえば死んでから、というのが仏教の常識であったが、「この世の往生がある」と明らかにされたのが親鸞聖人である。「不体失往生」「平生業成」「現生不退」こそが弥陀の救いであることを、生涯叫び続けられたのが親鸞聖人であり、当時の常識を覆す驚くべき聖人の教えの根拠は、釈迦の「本願成就文」であった。「成就文」の教え以外に親鸞聖人の教えはないのだから、「本願成就文」に反する田中氏の主張は、まったく親鸞聖人の教えではないのである。
親鸞聖人が、釈迦の「成就文」をもって弥陀の「本願文」を領解されたということが、いかに重大な意味を持つか。一つの例を示そう。

「本願成就文」には、弥陀の救いは「一念」であると説かれているのを、法然上人は「行の一念(念仏)」とされているが、親鸞聖人は「信の一念(信心)」と教えられている。
「本願成就文」の「一念」は「念仏」か「信心」か、両聖人の教えの違いはどこにあったのか、簡単に触れておきたい。

法然上人が『本願成就文』の「一念」を「念仏」とされたのは、『本願文』の「十念」の解説として領解されたからである。
『大無量寿経』の「成就文」には、ただ「一念」とあるので、「本願文」の「乃至十念」と同じように領解して「念仏」とも見ることができる。

それを親鸞聖人は「信心」と教えられたのは、異訳の『無量壽如来会』の十八願成就文をもって、『大無量寿経』の十八願成就文を見られたからである。
『大無量寿経』の「乃至一念」とあるところを異訳の『無量壽如来会』には、「一念の浄信」とあるから、凡夫に無い「如来から賜る清浄心(信心)」であることが明らかになる。

また『大無量寿経』の「成就文」の「一念」の文字は「信心」の下にあるが、『無量壽如来会』の「成就文」には「一念の浄信」と説き、「一念」の文字が「信心(浄信)」の上にあることにも親鸞聖人は着目なされた。そして『本願成就文』の「一念」を信心であることを明らかになされている。

かくて「若不生者 不取正覚」(必ず生まれさせる)と誓われた「弥陀の本願」の真意を、「成就文」から親鸞聖人は「一念で不体失往生できる」と説かれたのである。
親鸞聖人の大著『教行信証』六巻は、まさにこのこと一つを明らかにされたものであり、『教行信証』が「本願成就文」の解説書とも言われる所以だ。

「三経の安心あり。その中に大経をもって真実とせらる。大経の中には第十八の願をもって本とす。十八の願にとりてはまた、願成就をもって至極とす。『信心歓喜 乃至一念』をもって、他力の安心と思召めさるる故なり」
(改邪鈔)
覚如上人の仰せである。
仏教の至極(最も大事な御文)である「本願成就文」が分からずしては、親鸞聖人のみ教えは全く分からなくなることが、この一事からも知られよう。